人物

ヒュパティア

Hypatia
AD355年頃 – AD415年(享年60・推定)
ローマ帝国重要度 3

概要

アレクサンドリアの数学者・天文学者。街の宗教対立のなかで群衆に殺された。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

ヒュパティアの死AD415年 · 当人

本文

355年頃(370年頃とする説もある)、エジプトのアレクサンドリアに生まれた。アレクサンドロス大王が建てたこの町は(アレクサンドリア建設)、何百年ものあいだ、地中海世界の学問の中心だった。エウクレイデスが幾何学を教え、アレクサンドリアの図書館が書物を集め、2世紀にはクラウディオス・プトレマイオスが天文学の大著『アルマゲスト』を書いた。ヒュパティアが生まれたのは、その長い伝統の、最後の輝きの時代だった。

ヒュパティアの肖像(後世の想像画)
ヒュパティアの肖像(後世の想像画)Wikimedia Commons Jules Maurice Gaspard · Public domain

父のテオンは、この町で数学と天文学を教えた学者で、エウクレイデスの『原論』と、プトレマイオスの『アルマゲスト』の注釈で知られる。いまに伝わる『原論』の多くの写本は、テオンの手を経た版にもとづいている。テオンは『アルマゲスト』の注釈の一部について、娘である哲学者ヒュパティアが校訂したと書いている。ヒュパティアは父のもとで学び、やがて父を超える学者になったと言われた。

のちの事典によれば、彼女はディオファントスの代数学の書『算術』や、アポロニオスの円錐曲線の書への注釈、天文の表についての書を著したとされる。だが、本人の著作は一つも確かな形では残っていない。彼女の学問の姿は、他人の書いたものから推し量るしかない。

『ヒュパティア』(チャールズ・ウィリアム・ミッチェル画)
『ヒュパティア』(チャールズ・ウィリアム・ミッチェル画)Wikimedia Commons Charles William Mitchell · Public domain

いちばん生々しい記録は、弟子のシュネシオスが送った手紙である。北アフリカのキュレネの名家に生まれ、のちにキリスト教の主教になった人物で、師に宛てた何通もの手紙が残っている。そこには、自分が作ったアストロラーベ(天体の高さを測る器具)のことや、液体の重さを量る比重計を作ってほしいという依頼が書かれている。シュネシオスは手紙のなかで彼女を「母であり、姉であり、師」と呼んでいる。ヒュパティアは、書物の上だけでなく、実際に器具を扱う人だったことが分かる。

彼女はまた、新プラトン主義の哲学を教えた(プロティノスの新プラトン主義)。プロティノスに始まるこの哲学は、すべての存在は一なるものから流れ出る、と説く。同時代の教会史家ソクラテスは、彼女が町の中心で、望む者には誰にでもプラトンやアリストテレスを講じ、その学識と節度のある態度によって、役人たちからも敬われていた、と書いている。弟子には、キリスト教徒も、古い神々を信じる者もいた。生涯独身だったとされる。

虐殺されるヒュパティア
虐殺されるヒュパティアWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

4世紀の末、ローマ帝国ではキリスト教が国の宗教となり、テオドシウス1世のもとで古い神々の祭儀は禁じられた。391年には、アレクサンドリアの古い神殿セラペウムが、キリスト教徒の群衆に破壊されている。町はキリスト教徒、ユダヤ教徒、古い神々を信じる人々のあいだで、たびたび激しく衝突していた。

412年、アレクサンドリアのキュリロスが町の総主教になった。キュリロスは強い力をふるい、ユダヤ教徒を町から追い出そうとした。帝国から派遣された総督オレステスは、総主教の権力が強まることに反発し、二人は激しく対立した。修道士たちがオレステスを襲い、石を投げて傷を負わせる事件も起きた。ヒュパティアは、オレステスがよく相談に訪れる相手だった。キリスト教徒のあいだに、総督と総主教の和解を妨げているのは彼女だ、という噂が広がった。

ヒュパティアの父テオンが校訂した『ユークリッド原論』、9世紀の写本
ヒュパティアの父テオンが校訂した『ユークリッド原論』、9世紀の写本Wikimedia Commons Euclid · Public domain

415年3月、キリスト教の四旬節のさなかに、ペトロスという教会の朗読者に率いられた群衆が、帰宅途中のヒュパティアを馬車から引きずり降ろし、教会に連れ込んで衣服をはぎ、陶器のかけらで殺した。遺体はばらばらにされ、町の外で焼かれた(ヒュパティアの死)。60歳前後だったと考えられている。ソクラテスは、この事件はキュリロスとアレクサンドリアの教会に少なからぬ汚名をもたらした、と書いた。キュリロスが直接命じたのかどうかは、分からない。

18世紀の啓蒙思想家たちは、ヒュパティアを、キリスト教の狂信に殺された理性の殉教者として描いた。のちには、彼女の死で古代の学問が終わった、アレクサンドリアの図書館も彼女とともに失われた、といった話まで広まった。いまも「科学と宗教の対立」の象徴として引かれることが多い。だが実際には、図書館はそれよりずっと前に衰えていたし、彼女の死は、町の権力をめぐる党派の争いのなかで起きたものだった。その図式は、あとから当てはめられたものである。

シュネシオスがヒュパティアに送った現存7通の書簡の一つ、1553年刊本のギリシャ語原文
シュネシオスがヒュパティアに送った現存7通の書簡の一つ、1553年刊本のギリシャ語原文Wikimedia Commons Mariel García-Montes · CC0

それでも、彼女が古代で最もよく知られた女性の数学者であり、哲学者であったことは変わらない。記録の少なさのなかで、教えを受けた人々の手紙と、彼女の死を悼んだ同時代人の言葉が、学問に生きた一人の女性の姿をいまに伝えている。

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