カビールの詩
概要
織物職人が、ヒンドゥーもイスラームも否定する詩を口語で歌った。「私はヒンドゥーでもムスリムでもない」。その詩がシク教の聖典にも収められている。
場所
25.32°N 83.01°E · インド・ウッタルプラデシュ州
関わった人(1)
カビールAD1440年頃–AD1518年頃 · 歌った本文
カビールが生きたのは、北インドをデリー・スルタン朝の成立の諸王朝が治め、イスラームとヒンドゥーの信仰が同じ町の中で隣り合っていた時代だった。生年も没年もはっきりしない。伝承は1398年に生まれて1518年に死んだと語るが、そのまま信じれば120歳になる。研究者の多くは、15世紀に生きた人と見ている。
聖地ヴァーラーナシーの、織物職人の家で育った。職人たちはイスラームに改宗した低い身分の人々だったとされる。捨て子として拾われた、という伝説もある。ヒンドゥーの師ラーマーナンダに弟子入りしたとも伝わる。師が沐浴に下りる石段に寝そべって待ち、踏まれた拍子に師が口にした「ラーマ」の名を教えとして授かった、という話である。

カビールはどちらの信仰の決まりも退けた。「私はヒンドゥーでもムスリムでもない」と歌う。寺院の偶像を拝むことも、メッカの方角に礼拝することも、聖地への巡礼も、断食も、神を外に探す行いだと言う。神は名も姿も持たず、人の内にいる。身分の上下も、神の前では意味を持たない。
カビールの詩は、ときに謎めいた逆さまの言葉を使う。雨が大地から天へ降る、牛が子牛から乳をもらう、といった、あべこべの情景を並べ、聞く人の当たり前を揺さぶる。言葉の上の遊びではなく、ものの見方をひっくり返すための語り口だった。
こうした信仰は、神への一心の愛を説くバクティ運動の流れの中にある。なかでもカビールは、姿を持たない神を愛する道を、誰よりも鋭い言葉で歌った。どこに私を探すのか、私はお前のすぐそばにいる、という句は、神の言葉として今も愛唱される。

サンスクリットでもペルシア語でもなく、町の人々が日々話す言葉で歌った。短い二行の詩が多く、機を織る手を止めずに口ずさめる。書物を読みに読んで世の人は死んでいったが、学者になった者はいない、愛という短い言葉を読める者こそ学者だ、という句もよく知られる。カビール自身は読み書きをしなかったとされ、詩は口から口へと伝えられた。
そのため、どの詩が本当にカビールのものかを決めるのは難しい。詩は三つの流れで書き留められた。カビールを祖と仰ぐ教団の聖典、西インドの別の教団が伝えた詩集、そしてシク教の聖典である。1604年に編まれたシク教の聖典には、カビールの詩が数百編収められている。グル・ナーナクの教え(グル・ナーナクとシク教の成立)とカビールの歌は、神は一つで姿を持たないと説く点で深く響き合っていた。

死の場面にも伝説がある。ヴァーラーナシーで死ねば救われると信じられていたのに、カビールはわざわざ、そこで死ぬと次はロバに生まれると言われた町マガハルへ行って死んだ。迷信への最後の抵抗だったと語られる。
死後、ヒンドゥーの弟子は火葬を、ムスリムの弟子は土葬を求めて争った。覆いの布をめくると、遺体は消えて花だけが残っていた。人々はそれを二つに分け、それぞれの流儀で弔ったという。マガハルには今も、ヒンドゥーの廟とムスリムの墓が隣り合って建っている。

権力者との衝突を語る伝説も多い。スルタンのシカンダル・ローディーがカビールを捕らえ、象に踏ませようとしたが象が近寄らなかった、という話などである。史実かどうかは確かめられない。だが、身分の低い職人が王の前でも屈しない姿として、民衆が彼を記憶していたことは分かる。カビールを祖と仰ぐ教団は今も続き、その信者の多くは、低い身分に置かれてきた人々である。
20世紀の初め、詩人タゴールがカビールの詩を英語に訳し、その名は世界に知られた。インドでは今も、村の歌い手から街の歌手まで、カビールの歌を口にする。宗教の対立がしばしば血を流す土地で、その歌は、隔てる壁は人が作ったものだと言い続けている。