人物

デイヴィッド・ヒューム

David Hume
AD1711年5月7日 – AD1776年8月25日(享年65)
イギリス重要度 3

概要

原因と結果は習慣で結びつけているだけで、必然は証明できないと論じた。カントが「独断のまどろみから覚まされた」と書いた相手になる。

関わったできごと(1)

『人間本性論』AD1739年 · 著者

本文

デイヴィッド・ヒュームは1711年、スコットランドのエディンバラに生まれた。父は小さな地所を持つ法律家の家の人で、ヒュームが幼いうちに亡くなった。母に育てられ、10歳を過ぎたばかりでエディンバラ大学に入っている。家族は法律家になることを望んだが、本人は「哲学と一般的な学問の探究のほかには、何に対しても抑えがたい嫌悪を感じた」と、晩年の短い自伝『わが生涯』に書いている。

10代の終わり、ヒュームは新しい思想の道が開けたと感じ、猛烈に読み書きを始めた。だが無理がたたって心身を病み、数年を棒に振る。立ち直るため一時はブリストルの商人のもとで働き、やがてフランスへ渡った。生活費の安いアンジュー地方のラ・フレーシュに住み、そこで書き上げたのが『人間本性論』である(『人間本性論』)。1739年から翌年にかけて出版されたとき、ヒュームはまだ20代だった。

『人間本性論』に関わる図版:A Treatise of Human Nature by David Hume
『人間本性論』Wikimedia Commons David Hume · Public domain

この本は、ほとんど反響を呼ばなかった。ヒュームは自伝で、印刷機から死産で生まれ、熱狂した信者たちの不平を呼び起こすことさえなかった、と振り返っている。しかし中身は、それまでの哲学の土台を揺さぶるものだった。

ヒュームは問うた。原因と結果のあいだに、必ずそうなるという結びつきがあることを、私たちはどうやって知るのか。一つの玉がもう一つにぶつかり、二つ目が動く。私たちが実際に見ているのは、一つの出来事のあとに別の出来事が続くことだけである。それを何度も見るうちに、心が習慣として前者から後者を予期するようになる。必然という観念は、その心の習慣から生まれる。明日も太陽が昇ると信じるのは、理性で証明できるからではなく、習慣がそう思わせるからだ。

デイヴィッド・ヒュームの肖像
デイヴィッド・ヒュームの肖像Wikimedia Commons Allan Ramsay · Public domain

同じ吟味は、心そのものにも向けられた。自分の内側をいくら覗き込んでも、見つかるのは熱さや冷たさ、愛や憎しみといった個々の知覚ばかりで、それらを持つ「自我」そのものは見つからない。人の心は知覚の束にすぎない、とヒュームは書いた。道徳についても、「である」という事実の記述から「べきである」という規範は導けないと指摘し、「理性は情念の奴隷であり、またそうあるべきだ」と述べた。

ヒュームは同じ内容を短く読みやすく書き直し、1748年に『人間知性研究』として出した。こちらは少しずつ読まれ、奇跡を信じる根拠を問う章は激しい論争を呼んだ。無神論者、懐疑論者という評判がつきまとい、1745年にはエディンバラ大学、1751年にはグラスゴー大学の哲学の教授職に候補として挙がったが、どちらも聖職者たちの反対で実現しなかった。

デイヴィッド・ヒュームの肖像、ラムジー画
デイヴィッド・ヒュームの肖像、ラムジー画Wikimedia Commons Allan Ramsay · Public domain

職を得たのは、エディンバラの法曹協会の図書館の司書だった。蔵書を使って書いたのが『イングランド史』である。1754年から1762年にかけて刊行され、よく売れた。ヒュームは哲学者としてより先に、歴史家として名を知られ、経済的にも自立した。経済についての論考も書き、貨幣の量と物価の関係を論じた議論は、のちの経済学に受け継がれた。

1763年、駐仏大使の秘書としてパリへ赴いた。パリのサロンでは大歓迎を受け、「善良なるデイヴィッド」と呼ばれた。太った体に人の好い顔つきで、社交の席では穏やかで冗談を好んだと、多くの同時代人が書いている。1766年、フランスとスイスで迫害されていたジャン=ジャック・ルソーをイギリスへ連れて帰り、住まいの世話までした。しかしルソーはまもなく、ヒュームが自分を陥れようとしていると思い込み、公然と非難した。二人の決裂はヨーロッパ中の話題になった。

12歳年下のアダム・スミスとは、生涯の親友だった。ヒュームはスミスの仕事を励まし、亡くなる年に出た『国富論』を読んで、すぐに祝いの手紙を書いている。

『国富論』に関わる図版:Wealth of Nations
『国富論』Wikimedia Commons Gerhard Streminger · Public domain

1776年、ヒュームは腸の病で衰え、死期を悟った。同じ年の夏、伝記作家ボズウェルが見舞いに訪れ、来世を信じないまま穏やかに死を待つ姿に驚いた記録を残している。8月25日、エディンバラの自宅で死んだ。65歳。スミスは公開の手紙で、生涯を通じて人間の弱さが許すかぎり完全に賢く徳のある人に近かった、と友を讃えた。宗教を論じた『自然宗教をめぐる対話』は、死後の1779年に刊行された。

ヒュームの名がいちばん大きくなったのは、死後である。イマヌエル・カントは1783年の著作で、ヒュームの警告こそが何年も前に自分を独断のまどろみから目覚めさせた、と書いた。因果をどう基礎づけるかというヒュームの問いに答えようとして、カントは自分の哲学を組み立てた。帰納の問題、「である」と「べき」の区別、自我の問題は、いまも哲学の教科書の最初のほうに並んでいる。

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