人物

何晏

He Yan
AD195年 – AD249年(享年54・推定)
魏重要度 3

概要

何進の孫。母が曹操の妾になり、曹操の家で育ち、曹操の娘を妻に。「粉侯」。顔が白く、白粉を塗っていると疑われた。『論語集解』『道徳論』。清談。五石散。曹爽の側で、高平陵で司馬懿に殺された。三族。

所属

魏

関わったできごと(2)

正始の音(玄学の始まり)AD240年 · 論語集解竹林の七賢AD260年頃 · その前に正始の音

本文

何晏は南陽郡の宛(いまの河南省南陽)の人で、後漢末の大将軍・何進の孫にあたる。何進は霊帝の皇后の兄で、黄巾の乱のあと朝廷の兵権を握ったが、189年、宦官を一掃しようとして逆に宮中で殺された。その混乱が董卓の入京と群雄の争いを招き、後漢は崩れていく。何晏の生年は190年代とされ、はっきりしない。

竹林の七賢に関わる図版:竹林七聖図-Seven Sages of the Bamboo Grove MET DP361155
竹林の七賢Wikimedia Commons Sesson Shukei · CC0

父は早くに死に、母の尹氏は曹操の側室になった。何晏は連れ子として曹操の屋敷で育った。『世説新語』はこんな逸話を伝える。7歳ほどの何晏は聡明で、曹操は彼を自分の養子にしようと考えた。すると何晏は地面に四角い枠を描き、その中に入って「ここは何氏の家です」と言った。曹操はそれを聞いて、彼を何家に戻した。

曹操は彼を実の子のようにかわいがり、娘の金郷公主を妻に与えた。だが曹操の子の曹丕は何晏を嫌い、名を呼ばずに「仮子(養い子)」と呼んだという。何晏は太子に劣らない服を着て振る舞ったので、それが曹丕の反感を買ったとも言われる。

何晏は顔が透けるように白く、美男として知られた。『世説新語』によれば、魏の明帝(曹叡)は彼が白粉を塗っているのではないかと疑い、真夏に熱い汁麺を食べさせた。何晏は汗を流し、着物の袖で顔を拭ったが、顔はかえって白く輝いた。「白粉を塗った何郎」という言葉は、のちに美男の代名詞になった。皇女の婿であったことから、後世には「粉侯」とも呼ばれる。

曹丕と明帝の時代、何晏は重く用いられなかった。言葉と議論を好み、着飾って集まる若い名士たちは「浮華(うわべの華やかさ)の徒」として退けられたのである。転機は239年、明帝が死んで幼い曹芳が即位し、皇族の曹爽が司馬懿とともに後見に立ったときに来た。曹爽は何晏や鄧颺、丁謐らを側近に引き立て、何晏は官吏の人事を司る吏部尚書になった。当時の人は、この三人を「台中の三狗」と呼んで嫌ったという。人事の公平さについては、後世にも評価が分かれる。

政治家としての評判とは別に、何晏はこの時代の思想を変えた人だった。正始年間(240〜249年)、彼は若い王弼らとともに、『老子』『荘子』『易経』をもとに世界の根本を論じる議論を盛んにした(正始の音(玄学の始まり))。天地万物はすべて「無」を根本とする、というのがその中心の考えで、のちに「玄学」と呼ばれる。何晏は吏部尚書の地位にありながら、まだ20歳前の王弼の才を見抜き、「このような者とこそ天と人の境を語り合える」と嘆じた。自分の書いていた『老子』の注が王弼に及ばないと知ると、それを改めて『道徳論』にしたという。

儒学でも大きな仕事を残した。何晏が中心となって、漢から魏までの諸家の注釈を集め、自分たちの説を加えて編んだ『論語集解』は、現存する最も古い『論語』の完全な注釈書である。この本は日本にも早くに伝わり、長く『論語』を読むときの基本の注として使われた。

何晏はまた、「五石散」という鉱物を調合した薬を好んで飲み、それを流行させたと言われる。五石散を飲むと体が熱くなり、冷たいものを食べ、歩き回って熱を散らさなければならなかった。何晏は「五石散は病を治すだけでなく、心を晴れやかにする」と語ったと伝わり、魏晋の貴族の間で服用が広まった。中毒で体を壊す者も多く、のちの医者はその害を書き残している。

249年正月、曹爽が皇帝に従って洛陽の外の高平陵に参拝に出たすきに、司馬懿が都を押さえた(高平陵の変)。曹爽は降伏し、まもなく一党は謀反の罪で裁かれる。『魏氏春秋』によれば、司馬懿は何晏に曹爽一党の取り調べを命じた。何晏は許されることを望んで厳しく追及し、丁謐、鄧颺らの名を挙げていった。司馬懿は言った。「全部で八つの家だ」。何晏は七つまで挙げ、司馬懿は「まだ足りない」と言った。追い詰められた何晏が「私のことでしょうか」と問うと、司馬懿は「そうだ」と答えた。何晏は捕らえられ、三族ともに処刑された。

高平陵の変に関わる図版:司马懿诈病赚曹爽
高平陵の変Wikimedia Commons 冯墨农 · Public domain

この劇的な場面がどこまで事実かは分からないが、何晏の死は、魏の朝廷が司馬氏のものになっていく転換点を象徴している。その後、政治を語ることの危うさを知った名士たちは、竹林の七賢のように政治から身を引いて玄学や酒に向かった。何晏が始めた「無」をめぐる議論は、のちに仏教を中国の言葉で理解するための土台の一つにもなった。

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