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Person / 人

ハンナ・アーレント

Hannah Arendt
AD1906年10月14日 – AD1975年12月4日(享年69)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

ハノーファーのユダヤ人の家。マールブルクでハイデガーに学び、18歳で関係を持った(彼は後にナチスの学長になった)。ヤスパースの下で学位。1933年、ゲシュタポに8日拘束され、パリへ亡命、1940年に収容所を脱出して、1941年にニューヨークへ。『全体主義の起原』『人間の条件』『革命について』『イェルサレムのアイヒマン』。「私は民族を愛したことがない。私が愛するのは、友人だけである」。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

アーレント『全体主義の起原』AD1951年 · 書いた

本文

ハンナ・アーレント。1906年10月14日、ハノーファー近郊リンデン生まれ。ケーニヒスベルク(カントの町)で育った。世俗的なユダヤ人の家庭。7歳で父を梅毒で失った。

母は言った。「学校で先生が反ユダヤ的なことを言ったら、席を立って帰ってきなさい。手紙は私が書きます」。

1924年、マールブルク大学。18歳。教授マルティン・ハイデガー35歳、妻子あり。二人は関係を持った。1年で彼女はマールブルクを去り、ハイデルベルクのカール・ヤスパースのもとへ移った。

1929年、学位論文『アウグスティヌスにおける愛の概念』(ヤスパース指導)。

1933年、ナチスが権力を握った。ハイデガーはフライブルク大学総長になり、党に入った。アーレントはシオニストの組織のために、反ユダヤ的な発言の記録をプロイセン国立図書館で集め、ゲシュタポに8日間拘留され、釈放されると母とともにドイツを出た。

パリ。8年。ユダヤ人の子どもをパレスチナへ送る組織で働いた。ヴァルター・ベンヤミンと親しくなった。1940年、ハインリヒ・ブリュッヒャー(元共産党員の労働者出身の知識人)と再婚。

1940年、フランスが降伏。彼女はギュルスの収容所に入れられた。混乱に乗じて脱出した。1941年、リスボンから船でニューヨークへ。ベンヤミンは同じ年、スペイン国境のポルボウで自殺した。彼が託した原稿(「歴史の概念について」)を、彼女がアメリカへ運んだ。

ニューヨーク。英語を学び、ドイツ語のユダヤ人向け新聞に書き、ユダヤ文化復興委員会で、ナチスが略奪した書物と文化財の返還にあたった。

1951年、アメリカ市民権。同じ年、『全体主義の起原』。

1958年『人間の条件』。人間の活動を三つに分けた。労働(生命の維持。消費されて消える)、仕事(道具や建物を作る。世界に残る)、活動(他人の前で語り、行為する。政治)。近代は、この順序を逆にし、活動を経済に、政治を行政に還元した、と論じた。

「複数性(プルラリティ)」が、政治の条件である。「人間ではなく、人間たちが、この地上に生きている」。

1961年、アイヒマン裁判。1963年『イェルサレムのアイヒマン』。副題「悪の陳腐さについての報告」。激しい論争。ユダヤ人社会の多くから絶交された。

1963年『革命について』。フランス革命は「社会問題」(貧困)に飲み込まれて恐怖政治に至り、アメリカ革命は自由の制度化に成功した、と論じた。

ハイデガーとは、1950年に再会し、以後、往復書簡が続いた。彼女は彼の哲学を擁護し続けたが、彼のナチスへの関与を弁護はしなかった。この関係は、彼女の死後に書簡が公開されて、大きな議論になった。

シカゴ大学、ニュー・スクール。1970年、夫ブリュッヒャー死去。

1975年12月4日、ニューヨークの自宅で、客を迎えているときに心臓発作。69歳。『精神の生活』の第三部「判断」は、題名を打った紙がタイプライターに残されていた。

「私は、ドイツ語で考え、書きます。……残ったのは、言語です」(1964年、テレビ番組で)。

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