人物

カール・ポランニー

Karl Polanyi
AD1886年10月25日 – AD1964年4月23日(享年77)
ハンガリー重要度 3

概要

ウィーンで経済誌の編集をし、ナチスを逃れてイギリスへ渡った。市場が社会に埋め込まれていた歴史を示し、その逆転が20世紀の破局を生んだと論じた。

本文

カール・ポランニーは1886年10月25日、ウィーンに生まれ、ブダペストで育った。父は鉄道の技師で事業家、母はロシア出身の教養ある女性で、家には知識人が出入りした。弟のマイケル・ポランニーは、のちに化学者、科学哲学者として名を残している。

ブダペストの大学で法律を学んだカールは、1908年、学生たちの討論の会「ガリレイ・サークル」を立ち上げ、その初代の会長になった。古い身分秩序と教会の力が強いハンガリーで、科学と自由な議論、社会の改革を掲げた集まりだった。

第一次世界大戦では、オーストリア=ハンガリー軍の騎兵の将校として東部戦線へ出た。戦場で病に倒れて送り返され、心身ともに深く傷ついた。戦後のハンガリーは、民主革命、共産党の政権、そして反革命の白色テロへと揺れ動いた。ポランニーは1919年、ウィーンへ移った。

1920年代のウィーンは、社会民主党の市政のもとで、労働者向けの公営住宅や福祉が次々に作られていた。「赤いウィーン」と呼ばれた時代である。ポランニーはここで、革命家だった妻イローナ・ドゥチンスカと結婚し、1924年から有力な経済週刊誌『オーストリア国民経済』の編集者として働いた。自由市場こそ最良の仕組みだと説くミーゼスらの経済学者と、社会主義の経済は成り立つのかという論争も交わしている。

1929年の世界恐慌のあと、ヨーロッパの政治は急速に右へ傾いた。ドイツでナチスが政権を握った1933年、ユダヤ系の家に生まれ社会主義者でもあったポランニーは、雑誌の職を離れ、イギリスへ渡った。

世界恐慌に関わる図版:Unemployed men queued outside a depression soup kitchen opened in Chicago by Al Capone, 02-1931 - NARA - 541927
世界恐慌Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

イギリスでは、労働者教育協会の講師として、働きながら学ぶ大人たちに経済史とイギリスの社会史を教えた。教えるためにイギリスの産業革命と救貧法の歴史を調べるうちに、彼の考えは一冊の本の形をとりはじめた。1940年から43年にかけて、アメリカのバーモント州の小さな大学に招かれ、そこで書き上げたのが『大転換』である。1944年、第二次世界大戦がまだ終わらないうちに刊行された。

ポランニーの問いは、なぜ19世紀の文明は崩れ、世界恐慌とファシズムと戦争に行き着いたのか、だった。彼は答える。人類の長い歴史のなかで、経済はいつも社会に埋め込まれていた。人は互いに贈り合い、共同体で分け合い、交換もしたが、暮らしの全体が市場の値段で決まることは無かった。ところが19世紀のイギリスで、市場が社会から切り離され、逆に社会を従わせる仕組みが作られた。

その要になったのが、労働と土地と貨幣を、売り買いされる商品として扱うことだった。ポランニーはこれを「擬制商品」と呼んだ。人の生活も、自然も、もともと売るために作られたものではない。それを市場にすべて委ねれば、人も土地もずたずたになる(囲い込み)。だから社会は、工場法や労働組合、関税、中央銀行など、さまざまな形で自分を守ろうとして市場に抵抗する。市場の拡大と社会の自己防衛がせめぎ合うこの動きを、彼は「二重運動」と呼んだ。国際的なイギリスの金本位制を守ろうとして各国が緊縮を強いた末に、そのせめぎ合いがついに壊れたのが1930年代の破局だった、というのがポランニーの見立てである(金本位制の崩壊)。

囲い込みに関わる図版:Reeve and Serfs
囲い込みWikimedia Commons anonymous (Queen Mary Master) · Public domain

戦後、ポランニーはニューヨークのコロンビア大学に招かれ、経済史を教えた。しかし妻イローナは、若いころ共産党員だった経歴のためにアメリカへの入国が認められなかった。夫婦はカナダのトロント近郊に家を持ち、ポランニーは国境を越えてニューヨークまで通った。

晩年の研究は、市場が中心でない経済の姿に向かった。古代メソポタミアの交易、アテネの市場、18世紀の西アフリカのダホメ王国の奴隷貿易と王の管理する経済。共同研究者たちとまとめた『初期帝国における交易と市場』(1957年)は、のちに「経済人類学」と呼ばれる分野の出発点の一つになった。1964年4月23日、ポランニーはカナダで死んだ。77歳だった。

『大転換』は出版当時は大きく売れなかったが、その後、市場への信頼が強まるたびに読み直されてきた。1970年代以降の規制緩和、冷戦後のグローバル化、2008年の金融危機のたびに、市場を社会から切り離すとどうなるかという問いが持ち出され、ポランニーの名が呼ばれた。経済を社会の中に置き直して考える見方は、デヴィッド・グレーバーの『負債論』など、のちの人類学や歴史の仕事にも受け継がれている(物語「『大転換』で読む歴史」)。

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