できごと

エラスムス『愚神礼賛』

The Praise of Folly
AD1511年
重要度 4
カルマル同盟ポルトガル帝国モスクワ大公国アラブ系の人びと白羊朝マムルーク朝ポーランド・リトアニア共和国オスマン帝国神聖ローマ帝国リトアニア大公国スペイン帝国フランス王国Imperial Hungaryポーランド王国クリム・ハン国サーミザイヤーン朝Englandハンガリー王国アラゴン王国ハフス朝デンマーク=ノルウェーTeutonic Knightsワッタース朝ヴェネツィア共和国ScottlandジョージアAD1511年ロンドン
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概要

愚かさの女神が自分を讃える演説をする。神学者、修道士、教皇、みな愚かさで生きている。トマス・モアの家で1週間で書いた。ラテン語で40版を重ね、教会を笑った本として、ルターの6年前に読まれた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

エラスムスAD1466年頃–AD1536年7月12日 · 著者

本文

1509年の夏、オランダ生まれの人文学者エラスムスは、3年を過ごしたイタリアからイングランドへ向かっていた。即位したばかりのヘンリー8世が学問を好むと聞き、友人たちに招かれたのである。馬でアルプスを越えながら、彼は一つの戯れの本を思いついた。ロンドンに着くと、シティのバックラーズベリーにある友人トマス・モアの家に身を寄せ、腎臓の痛みで寝込んでいるあいだに、それを一週間ほどで書き上げたという。モアはのちに、やはり架空の語り手の口を借りて世の中を批判する『ユートピア』(トマス・モア『ユートピア』)を書くことになる。

題は『モリアエ・エンコミウム』、ギリシア語で「愚かさの讃美」を意味する。同時に、モア(ラテン語でモルス)の名をかけた言葉遊びでもあった。献辞でエラスムスは、あなたの名は愚かさ(モリア)に近いが、あなたほどその名から遠い人はいない、と友に書いている。

ハンス・ホルバインが描いた『愚神』の欄外の戯画(1515年、エラスムス旧蔵本)
ハンス・ホルバインが描いた『愚神』の欄外の戯画(1515年、エラスムス旧蔵本)Wikimedia Commons Hans Holbein the Younger · Public domain

本は、愚かさの女神ストゥルティティアが演壇に立ち、自分を讃える演説をする、という形をとる。私がいなければ、そもそも誰も生まれてこない、と女神は言う。結婚は、先のことを考えない愚かさがあってはじめて成り立つ。子どもが愛らしいのは愚かだからで、老人が幸せなのは愚かさに戻るからだ。女神の侍女は、自己愛、へつらい、忘却、怠け、快楽、狂気、放埒である。人の世の楽しみは、すべて彼女たちのおかげだ、と。

前半の笑いは人の世の常を相手にしていたが、後半になると矛先は特定の人々へ向く。文法の教師、詩人、法律家、哲学者。そして神学者たちは、神が女や、悪魔や、ロバや、瓜や、石の姿をとることもできたか、といった問いを真顔で論じている。修道士は無学を聖なるものと取り違え、祈りの文句を数えることに熱心である。そして教皇。もし教皇がキリストの代理であるなら、キリストの貧しさと労苦と十字架にならうべきではないか、と女神は問う。

デジデリウス・エラスムス(ハンス・ホルバイン画)
エラスムスWikimedia Commons Hans Holbein the Younger · Public domain

最後に、話は思いがけない所へ行き着く。パウロは、神は世の知恵を愚かなものとされた、と書いた。信仰とは、世の目から見れば愚かさであり、天上の喜びに我を忘れる信者の姿は、狂人に似ている。女神の讃える愚かさは、ここで、キリスト教の信仰の最も深いものと重なる。どこまでが皮肉で、どこからが本気なのか、読者はいつも迷わされる。

本は1511年にパリで刷られ、たちまち評判になった。1515年、バーゼルの印刷業者フローベンが注釈つきの版を出すと、若い画家ホルバインが、ある一冊の余白に、場面ごとの小さな絵を描き込んだ。その中に描かれた机に向かうエラスムスの姿を見て、本人は、エラスムスがこんな姿なら妻をもらうだろう、と笑ったと伝えられる。本はエラスムスの生きているあいだに数十の版を重ね、ラテン語の本としては異例に広く読まれた。

当然、反発もあった。ルーヴァン大学の神学者マルティン・ドルプは、神学者を嘲る本だと書簡で批判した。エラスムスは長い返書を出し、誰の名も挙げていない、悪徳を笑うのは人を傷つけるためではない、と答えた。だが、修道院と教会の上層を笑うこの本が、教会への不満を言葉にして広めたことは確かだった。1517年、ルターが論題を掲げると(95か条の論題)、エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵した、という言い方が広まった。エラスムスは、自分が産んだのは鶏の卵で、ルターが孵したのは別の鳥だ、と返したという。

95か条の論題に関わる図版:Luther 95 Thesen
95か条の論題Wikimedia Commons Martin Luther · Public domain

エラスムスは教会の改革を望みながら、教会を割ることは望まなかった。1524年、彼は『自由意志論』を書いて、人間の意志の役割を認める立場からマルティン・ルターを批判し、ルターは翌年『奴隷意志論』で激しく応じた。二人の道はここで分かれた。エラスムスは1536年に死んだが、1559年、教皇パウルス4世の禁書目録は、彼の著作のすべてを最も重い区分に入れた。それでも『愚神礼賛』は読まれ続け、いまも風刺の古典として、エラスムスの名をもっとも広く伝える本になっている。

動画(1)

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