エラスムス『愚神礼賛』
概要
愚かさの女神が自分を讃える演説をする。神学者、修道士、教皇、みな愚かさで生きている。トマス・モアの家で1週間で書いた。ラテン語で40版を重ね、教会を笑った本として、ルターの6年前に読まれた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
エラスムスAD1466年頃–AD1536年7月12日 · 著者本文
1509年の夏、オランダ生まれの人文学者エラスムスは、3年を過ごしたイタリアからイングランドへ向かっていた。即位したばかりのヘンリー8世が学問を好むと聞き、友人たちに招かれたのである。馬でアルプスを越えながら、彼は一つの戯れの本を思いついた。ロンドンに着くと、シティのバックラーズベリーにある友人トマス・モアの家に身を寄せ、腎臓の痛みで寝込んでいるあいだに、それを一週間ほどで書き上げたという。モアはのちに、やはり架空の語り手の口を借りて世の中を批判する『ユートピア』(トマス・モア『ユートピア』)を書くことになる。
題は『モリアエ・エンコミウム』、ギリシア語で「愚かさの讃美」を意味する。同時に、モア(ラテン語でモルス)の名をかけた言葉遊びでもあった。献辞でエラスムスは、あなたの名は愚かさ(モリア)に近いが、あなたほどその名から遠い人はいない、と友に書いている。

本は、愚かさの女神ストゥルティティアが演壇に立ち、自分を讃える演説をする、という形をとる。私がいなければ、そもそも誰も生まれてこない、と女神は言う。結婚は、先のことを考えない愚かさがあってはじめて成り立つ。子どもが愛らしいのは愚かだからで、老人が幸せなのは愚かさに戻るからだ。女神の侍女は、自己愛、へつらい、忘却、怠け、快楽、狂気、放埒である。人の世の楽しみは、すべて彼女たちのおかげだ、と。
前半の笑いは人の世の常を相手にしていたが、後半になると矛先は特定の人々へ向く。文法の教師、詩人、法律家、哲学者。そして神学者たちは、神が女や、悪魔や、ロバや、瓜や、石の姿をとることもできたか、といった問いを真顔で論じている。修道士は無学を聖なるものと取り違え、祈りの文句を数えることに熱心である。そして教皇。もし教皇がキリストの代理であるなら、キリストの貧しさと労苦と十字架にならうべきではないか、と女神は問う。

最後に、話は思いがけない所へ行き着く。パウロは、神は世の知恵を愚かなものとされた、と書いた。信仰とは、世の目から見れば愚かさであり、天上の喜びに我を忘れる信者の姿は、狂人に似ている。女神の讃える愚かさは、ここで、キリスト教の信仰の最も深いものと重なる。どこまでが皮肉で、どこからが本気なのか、読者はいつも迷わされる。
本は1511年にパリで刷られ、たちまち評判になった。1515年、バーゼルの印刷業者フローベンが注釈つきの版を出すと、若い画家ホルバインが、ある一冊の余白に、場面ごとの小さな絵を描き込んだ。その中に描かれた机に向かうエラスムスの姿を見て、本人は、エラスムスがこんな姿なら妻をもらうだろう、と笑ったと伝えられる。本はエラスムスの生きているあいだに数十の版を重ね、ラテン語の本としては異例に広く読まれた。
当然、反発もあった。ルーヴァン大学の神学者マルティン・ドルプは、神学者を嘲る本だと書簡で批判した。エラスムスは長い返書を出し、誰の名も挙げていない、悪徳を笑うのは人を傷つけるためではない、と答えた。だが、修道院と教会の上層を笑うこの本が、教会への不満を言葉にして広めたことは確かだった。1517年、ルターが論題を掲げると(95か条の論題)、エラスムスが卵を産み、ルターがそれを孵した、という言い方が広まった。エラスムスは、自分が産んだのは鶏の卵で、ルターが孵したのは別の鳥だ、と返したという。

エラスムスは教会の改革を望みながら、教会を割ることは望まなかった。1524年、彼は『自由意志論』を書いて、人間の意志の役割を認める立場からマルティン・ルターを批判し、ルターは翌年『奴隷意志論』で激しく応じた。二人の道はここで分かれた。エラスムスは1536年に死んだが、1559年、教皇パウルス4世の禁書目録は、彼の著作のすべてを最も重い区分に入れた。それでも『愚神礼賛』は読まれ続け、いまも風刺の古典として、エラスムスの名をもっとも広く伝える本になっている。