右が偶数、左が奇数
概要
革命のころのパリには、番地の付け方がいくつも混在していた。通りの片側を端から順に数えて向かい側を戻ってくるものもあれば、地区ごとに通し番号を振ったものもあり、同じ通りに同じ番号が二つあることさえあった。1805年の布告で、セーヌ県知事フロショは一つの決まりにそろえた。セーヌ川に向かう通りは川に近い端から、川に沿う通りは上流の端から数え始める。進む向きに右が偶数、左が奇数。番号を見れば、川がどちらにあるかも分かる。このやり方は、いまも世界の多くの町で使われている。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
十八世紀のパリでは、家は番号ではなく看板で呼ばれていた。「白い馬の家」「三つの王冠の家」「金の鍋の店」。通りの名と看板の名を言えば、手紙も客もたどり着けた。字の読めない人が多い時代には、絵の看板のほうが番号よりも役に立った。
町が大きくなると、それでは足りなくなる。同じ図柄の看板はいくつもあり、店が替われば看板も替わる。番号を振る試みは十八世紀の後半から何度かあったが、統一した決まりはなかった。ある通りでは、片側を端から順に数えていき、反対側の端で折り返して向かい側を戻ってくる。そうすると、向かい合う家の番号がまるで違う数になる。

革命が事態をさらにややこしくした。1790年、パリは四十八の地区(セクション)に分けられ、地区ごとに家の通し番号が振られた。番号は通りではなく地区に属していたから、一本の通りが二つの地区にまたがれば、途中で番号の数え方が切り替わる。同じ通りに同じ番号が二つある、ということさえ起きた。住所が住所の役を果たしていなかった。
この混乱を整理したのが、1805年2月4日の政令である。進めたのはセーヌ県の知事ニコラ・フロショだった。セーヌ県はパリを含む県で、知事は事実上のパリの行政の長である。この頃、皇帝となったナポレオン・ボナパルトの下で、法典(ナポレオン法典)から行政の区画まで、国の仕組みを一つの規則にそろえる作業が進んでいた。番地もその流れの中にある。

決まりは簡単だった。まず、パリを貫くセーヌ川を基準にする。川に向かって延びる通りは、川に近い端から数え始める。川に沿って延びる通りは、川の上流の側の端から数え始める。そして数え始めた端から進む向きに見て、右側に偶数、左側に奇数を振る。
この決まりには、思いがけない便利さがあった。番号が小さくなる方向に、川がある。道に迷っても、二軒ほどの番号を見比べれば、セーヌ川がどちらにあるか分かる。通りの番号を書き分けた色も、当初は、川に沿う通りを赤、川に向かう通りを黒とした、と伝えられる。

偶数と奇数に分けることにも理由があった。片側ずつ数えるので、向かい合う家の番号が近くなる。12番の向かいは11番か13番のあたりにある。目当ての番号を探しながら歩くとき、反対側へ渡るべきかどうかがすぐに分かる。通りの片側にあとから家が建っても、番号の付け直しはその側だけで済む。それでも間に家が割り込んだときは、枝番を付けた。「12の2」はフランス語で「12ビス」、さらに次は「12テール」と呼ぶ。この呼び方はいまもパリの住所に残っている。
フロショ自身は、その後、意外な形で表舞台を去る。1812年、ナポレオンがロシアに遠征していた留守に、マレ将軍が「皇帝は死んだ」と偽って政権を奪おうとした事件で、知事として対応を誤り、職を解かれた。だが彼の決めた番地は残った。十九世紀半ばには、いまもパリで見られる青地に白い数字の琺瑯の板が使われるようになり、オスマンのパリ改造で新しく通された大通りにも、同じ決まりで番号が振られた。

右が偶数、左が奇数という分け方は、その後ヨーロッパから南北アメリカへ、さらに多くの国へ広がった。アメリカの町では、街区ごとに百ずつ番号を進める工夫が加わったが、道の両側を偶数と奇数に分ける点は同じである。2014年に本格的に使われ始めた韓国の住所(道の名の住所)も、道に名前を付け、その左右で奇数と偶数を分けている。
住所の付け方には、もう一つの大きな流れがある。オーストリアでは十八世紀に、徴兵のために村の家を一列に通し番号で数えた(家に番号を振る)。そこでは番号は家の数を把握するためのもので、場所を探すためのものではなかった。パリは、番号を通りに結びつけ、家を場所で探せるようにした。日本の住所はさらに別の道を歩み、通りではなく区画に番号を振る方式を取っている(住居表示)。番地の付け方には、その国の町が通りでできているのか、区画でできているのかが表れている。