できごと

タスキーギ梅毒研究

Tuskegee Syphilis Study
AD1932年
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国メキシココロンビアベネズエラDominion of NewfoundlandガイアナニカラグアホンジュラスキューバグアテマラパナマAD1932年タスキーギ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1932年の版図を描いています(14勢力)。

概要

アメリカ公衆衛生局が、アラバマの黒人小作農399人の梅毒患者を「治療せずに経過を観察する」研究を始めた。参加者には「悪い血」の治療と告げ、無料の食事と埋葬費を与えた。1940年代にペニシリンが治療薬になっても、与えなかった。研究は40年続き、1972年に内部告発で報道されて中止された。死者128人、妻への感染40人、先天梅毒の子19人。1997年、大統領が謝罪した。医学研究への不信が、いまも残っている。

場所

タスキーギ
32.43°N -85.69°E · アメリカ・アラバマ州

本文

1932年、アメリカ公衆衛生局は、アラバマ州メイコン郡で一つの研究を始めた。正式な名は「黒人男性における未治療梅毒のタスキーギ研究」。治療をしなかった梅毒が、人の体に何を起こすのかを、死ぬまで追い、解剖して確かめる研究だった。

メイコン郡は、アメリカでもっとも貧しい郡の一つだった。住民の大半は黒人の小作農で、綿花畑で働き、医者にかかる機会はほとんど無かった。梅毒は15世紀の末にヨーロッパで大流行して以来(梅毒の流行)、世界中に広がった性感染症で、長い年月をかけて心臓や血管、脳や神経を冒す。この地域の調査では、住民の3割を超える人が感染していると推定された。もともとここでは、慈善財団の資金で梅毒を治療する事業が行われていた。1929年の大恐慌で資金が尽きると、公衆衛生局は、治療ではなく観察に切り替えることにした。

被験者に注射する医師(タスキーギ梅毒研究)
被験者に注射する医師(タスキーギ梅毒研究)Wikimedia Commons National Archives Atlanta, GA (U.S. government) · Public domain

対象に選ばれたのは、梅毒にかかった黒人の男性399人と、比べるための感染していない201人だった。当時の治療は、ヒ素の化合物や水銀を何か月も使うもので、効き目は限られ、副作用も重かった。研究を考えた医師たちには、治療しなくても大差ない、という言い分があった。その一方で、梅毒は白人では神経を、黒人では心臓や血管を冒しやすい、という人種についての思い込みを確かめたいという動機もあった。研究は、最初は半年から1年ほどの予定だったともいう。

参加した男性たちは、「悪い血」の治療をすると告げられた。悪い血とは、この地域で、貧血や疲れやすさ、梅毒を含むさまざまな不調をまとめて指す言葉だった。彼らは、自分が梅毒だとは知らされなかった。研究の対象になっていることも知らされなかった。無料の診察、診察の日の無料の食事、そして死んだときの埋葬の費用が約束された。埋葬費は、遺族が解剖に同意することと引き換えだった。貧しい小作農の家にとって、それは大きな意味を持った。

採血を受ける被験者(1953年頃)
採血を受ける被験者(1953年頃)Wikimedia Commons Uploaded by Taco325i · Public domain

男性たちが受けた「治療」は、アスピリンや鉄剤、そして診断のための腰椎穿刺だった。背骨の間に針を刺して髄液を抜く検査で、痛みを伴い、危険もある。研究者たちは男性たちを集めるために「特別な無料の治療を受ける最後の機会」と書いた手紙を送った。研究のあいだずっと男性たちに付き添ったのは、黒人の看護師ユーニス・リヴァーズだった。彼女は男性たちに信頼され、研究が40年続くことを支えた。彼女自身がこの研究をどう考えていたのかは、いまも議論がある。

1940年代、状況は大きく変わった。ペニシリンの発見から生まれた抗生物質のペニシリンが梅毒によく効くことが1943年に確かめられ、1940年代の後半には標準の治療になった。それでも、タスキーギの男性たちにはペニシリンが与えられなかった。研究者たちは、男性たちがよそで治療を受けないよう手を回した。地元の医師に参加者の名簿を渡して治療しないよう求め、第二次世界大戦の徴兵検査で梅毒を指摘された参加者を、治療の対象から外させたとされる。1947年にニュルンベルク綱領が人体実験には本人の自発的な同意が欠かせないと定めても、1964年の世界医師会の宣言が研究倫理の原則を掲げても、研究は続いた。

看護師ユーニス・リバースと話す被験者たち(1970年頃)
看護師ユーニス・リバースと話す被験者たち(1970年頃)Wikimedia Commons Department of Health, Education, and Welfare. Public Health Service. Health Services and Mental Health Administration. C · Public domain

内側から声を上げた人がいた。公衆衛生局で性感染症の聞き取り調査をしていたピーター・バクストンである。1966年、彼は研究の中止を求める手紙を上司に送った。1969年に疾病対策センターが専門家の会議を開いたが、結論は研究を続けて完了させるべきだ、というものだった。会議にいた医師のほとんどは、研究の継続に賛成したという。バクストンはあきらめず、1972年、知り合いの記者に資料を渡した。

1972年7月25日、AP通信の記者ジーン・ヘラーの記事が全米の新聞に載った。アメリカ政府が40年にわたり、黒人の男性たちを梅毒の治療から遠ざけて観察していた。議会は公聴会を開き、研究はその年の11月に打ち切られた。このとき生きていた参加者は74人だったとされる。梅毒が直接の原因で死んだ人は28人、合併症で死んだ人は100人、妻に感染したのは40人、生まれつき梅毒を持って生まれた子は19人と数えられた。数字には幅があるが、被害の規模はこのくらいである。

タスキーギ梅毒研究に関わったオリバー・ウェンガー
タスキーギ梅毒研究に関わったオリバー・ウェンガーWikimedia Commons Public domain

1973年、公民権運動で知られた弁護士フレッド・グレイが、参加者と遺族を代表して国を訴えた。1974年、1000万ドルで和解が成立し、生き残った人と、感染した妻や子に、生涯の医療が約束された。同じ1974年、議会は国家研究法を作り、人を対象とする研究には、施設ごとの審査委員会の承認と、本人への説明と同意(インフォームド・コンセント)を義務づけた。1979年には、人格の尊重、善行、正義を研究倫理の三つの柱とする報告書がまとめられた。

1997年5月16日、ホワイトハウスで、ビル・クリントン大統領が国として正式に謝罪した。その場には、存命の参加者8人のうち5人が招かれていた。大統領は、アメリカ政府がしたことは恥ずべきことであり、深く申し訳なく思う、と述べた。最後の参加者が亡くなったのは2004年、感染した家族への医療の給付は2000年代を過ぎても続いた。

梅毒の早期治療を勧める1930年代の米国のポスター
梅毒の早期治療を勧める1930年代の米国のポスターWikimedia Commons Public domain

この研究は、アメリカの黒人社会に、医療への深い不信を残した。臨床試験に参加する黒人の少なさ、予防接種へのためらい、医師との距離。その一部がこの40年にさかのぼることが、繰り返し指摘されてきた。2020年からのCOVID-19の世界的流行のワクチン接種をめぐっても、タスキーギの名が何度も持ち出された。研究に使われた細胞の由来が同じ時代に問われたヒーラ細胞の話とともに、それは同意とは何かを問う事件として語り継がれている。不信は、根拠の無いものではない。それは、経験の記憶である。

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