できごと

正徳の治

Shōtoku reforms
AD1709年(宝永6年)
重要度 3
ロシア帝国清スペイン帝国中央アジアの諸ハン国チベットチュクチ明の滅亡後の軍閥アユタヤ朝Avaシャン諸邦Koryaks日本大越大越朝鮮王朝Itelmenラオスの諸国フィリピンカンボジアLan NaアイヌモシリAD1709年(宝永6年)江戸
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概要

6代家宣と7代家継の6年、儒者の新井白石が側用人間部詮房と政治をした。生類憐みの令の廃止、金の含有量を戻した正徳金銀、長崎貿易の制限(金銀の流出を止める)、朝鮮通信使の待遇の簡素化。8代吉宗が来て、白石は追われた。『折たく柴の記』『読史余論』『西洋紀聞』。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

新井白石AD1657年3月24日–AD1725年6月29日 · 政治をした

本文

1709年1月、5代将軍徳川綱吉が死んだ。跡を継いだのは、甲府藩主だった甥の家宣で、このとき数えで48歳だった。家宣には、甲府藩主の時代から講義をしてきた儒者がいた。上総の小さな藩に仕える武士の子に生まれ、一時は浪人となって貧しさの中で学問を積んだ新井白石である。家宣は将軍になると、白石を政治の相談役にし、同じく甲府以来の側近で側用人となった間部詮房とともに、政治の舵を任せた。この二人が政治を動かした家宣と7代家継の時代、1709年から1716年までを、のちに「正徳の治」と呼ぶ。

家宣が最初に手を付けたのは、前の代のやり方を改めることだった。綱吉は死の床で、生類憐みの令だけは続けてほしいと言い残したとされるが、家宣はすぐにこれを廃止した。江戸の犬小屋に囲われていた犬は放たれ、罪に問われていた人々の多くが許された。綱吉の側用人として権勢をふるった柳沢吉保は身を引いた。綱吉の代に始まった酒への課税も、この年のうちにやめている。

白石が最も力を注いだのは貨幣だった。綱吉の時代、勘定奉行の荻原重秀は、金貨と銀貨に混ぜ物を増やして質を落とし、同じ量の金銀からより多くの貨幣を作った。その差益で、財政の穴を埋めたのである。元禄文化の華やぎの裏で、物価は上がっていた。重秀はその後も、さらに質の悪い貨幣を出し続けた。白石は、貨幣の質を落とすのは天下の民からひそかに財を奪うことだと考え、重秀をくり返し弾劾した。1712年、重秀はついに職を解かれる。

元禄文化に関わる図版:Irises screen 2
元禄文化Wikimedia Commons Ogata Kōrin · Public domain

1714年、幕府は、徳川の初めの慶長の金貨と同じ質に戻した正徳金銀を出した。金と銀の量に見合った、信用のある貨幣に戻したことになる。ただ、出回る貨幣の量は減り、物価は下がったが、商いの景気は冷え込んだ。古い貨幣と新しい貨幣の交換もうまく進まず、市場は混乱した。正しい貨幣を求めた白石の考えと、世の中の金回りとの間に、ずれがあった。

白石は、金銀が海外へ流れ出ていることにも目を向けた。長崎の貿易で、日本は中国とオランダから生糸や薬などを買い、代価として大量の金銀を払っていた。白石は、江戸の初めからどれだけの金銀が国外へ出たかを、記録をもとに計算した。その結果をもとに、1715年、海舶互市新例を定める。長崎に来る清の船を年に30隻、取引を銀6000貫まで、オランダの船を年に2隻、銀3000貫までに抑え、清の商人には幕府の許可証を持たせた。この枠組みは、その後の長崎貿易の基本になった。

新井白石の肖像
新井白石Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

外交の儀礼も改めた。1711年、家宣の将軍就任を祝う朝鮮通信使が来日すると、白石は、それまで豪華を極めていたもてなしを簡素にし、朝鮮の国書での将軍の呼び名を「日本国大君」から「日本国王」に改めさせた。将軍を、朝鮮の国王と対等の国の主として位置づけるためだったとされる。対馬藩に仕えた儒者の雨森芳洲らは、これに強く反対した。将軍の呼び名は、次の代にもとの「大君」へ戻されている。

ほかにも、白石の提案で皇族の新しい家として閑院宮家が立てられ、天皇家の跡継ぎが絶える心配に備えた。この家から、のちに光格天皇が出て、いまの皇室につながっている。1708年、屋久島に上陸して捕らえられたイタリア人の宣教師シドッチを、白石は翌年、江戸で自ら取り調べた。その問答をもとに書いた『西洋紀聞』は、鎖国のもとで西洋の地理や事情を伝える貴重な書になった。

家宣は1712年、将軍になってわずか3年あまりで病死した。跡を継いだ家継は数えで4歳で、政治は引き続き間部と白石が担ったが、古くからの譜代の大名や幕臣の反感は強まっていった。1716年、家継が数えで8歳で死ぬと、紀州藩主の徳川吉宗が8代将軍に迎えられた。間部と白石はすぐに退けられ、白石の政策の多くは改められた。吉宗はやがて享保の改革を進めることになる。

職を離れた白石は、自らの生涯と政治を振り返る自伝『折たく柴の記』を書いた。そこには、家宣への深い信頼と、自分の政策を阻んだ人々への厳しい言葉が並ぶ。白石の改革は短く、景気を冷やしたとも評される。それでも、儒学の理想を掲げて政治を正そうとし、将軍の側近が学者として国の制度を論じた時代として、正徳の治は江戸の政治の中で独特の位置を占めている。

動画(1)

102 正徳の治 日本史ストーリーノート第11話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第102講「正徳の治」

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