← 地図で見る
Event / できごと

正徳の治

Shōtoku reforms
AD1709年(宝永6年)
重要度 3

概要

6代家宣と7代家継の6年、儒者の新井白石が側用人間部詮房と政治をした。生類憐みの令の廃止、金の含有量を戻した正徳金銀、長崎貿易の制限(金銀の流出を止める)、朝鮮通信使の待遇の簡素化。8代吉宗が来て、白石は追われた。『折たく柴の記』『読史余論』『西洋紀聞』。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

新井白石AD1657年3月24日–AD1725年6月29日 · 政治をした

本文

1709年1月、綱吉が死んだ。甥の家宣が48歳で6代将軍。家宣が甲府藩主だった頃から仕えた儒者、新井白石と、側用人の間部詮房が政治をした。

白石は、10日で生類憐みの令を廃止した。綱吉の側用人柳沢吉保を退けた。江戸に蓄えられた「酒税」(綱吉が出した)を廃止した。

貨幣。綱吉の時代の勘定奉行荻原重秀が、金の含有率を下げた元禄金銀を出して、幕府の財政の穴を埋めていた(500万両の出目)。物価が上がった。白石は荻原を憎んで、3度弾劾して、1712年に失脚させ、1714年、慶長金と同じ含有率の正徳金銀を出した。金の量が減って、物価は下がり、景気は冷えた。

長崎貿易。1715年、海舶互市新例。清の船は年30隻、銀6000貫まで、オランダ船は2隻、銀3000貫まで。金銀が流出しているから。「日本の金の4分の1、銀の4分の3が海外に出た」と白石は計算した。

朝鮮通信使。1711年、家宣の就任を祝う使節。白石は待遇を簡素にして、将軍の称号を「日本国大君」から「日本国王」に変えた。対馬藩と儒者が反対した。次の吉宗のときに戻された。

1712年、家宣が死んだ。家継が4歳で7代。1716年、家継が8歳で死んだ。白石と間部は失脚した。吉宗が来て、白石の政策のほとんどが戻され、白石は「正徳の治」を自分の記憶の中に持って、本を書いた。『折たく柴の記』。「私は将軍と国のために、正しいと思うことをした」。

同じ時代のできごと

ラゴスとベニン湾の交易AD17〜19世紀ロック『統治二論』AD1689年ネルチンスク条約AD1689年9月6日先住民による西洋批評AD17世紀末〜18世紀初めソル・フアナ「フィロテア修道女への返答」AD1691年イングランド銀行の設立AD1694年カルロヴィッツ条約AD1699年1月26日元禄文化AD1700年頃