『共産党宣言』

概要
共産主義者同盟の綱領として、マルクス29歳とエンゲルス27歳が書いた。23ページ。「一つの妖怪がヨーロッパを徘徊している」。「これまでの全ての社会の歴史は階級闘争の歴史である」。「万国のプロレタリア、団結せよ」。1848年革命の直前に出て、革命の中では読まれなかった。50年で35の言語。20世紀に、これを綱領にした国が世界の3分の1を治めた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(2)
カール・マルクスAD1818年5月5日–AD1883年3月14日 · 書いたフリードリヒ・エンゲルスAD1820年11月28日–AD1895年8月5日 · 書いた本文
1840年代のヨーロッパでは、工場と鉄道が広がる一方で、都市に流れ込んだ労働者が長い労働時間と低い賃金、不衛生な住まいに苦しんでいた。産業革命の先頭を行くイギリスでも、遅れて工業化の始まったドイツでも、貧困は社会の大きな問題になっていた。1845年からはジャガイモの疫病と凶作がヨーロッパを襲い、食料の値段が上がって、各地で暴動が起きた。
その頃、パリやロンドンには、故国を追われたドイツ人の職人や知識人が集まっていた。その中に、「正義者同盟」という秘密結社があった。1847年6月、同盟はロンドンで大会を開き、名を「共産主義者同盟」に改めた。この大会には、マンチェスターで紡績会社の経営に携わる一家の息子、フリードリヒ・エンゲルスも加わっていた。同盟は、「すべての人間は兄弟である」という古い標語を、「万国のプロレタリア、団結せよ」に改めたとされる。

同じ年の11月末から12月初めにかけて、ロンドンで第2回大会が開かれた。ブリュッセルに亡命していたカール・マルクスも出席し、10日にわたる議論の末、マルクスとエンゲルスが同盟の綱領を書くことになった。マルクスは29歳、エンゲルスは27歳だった。エンゲルスはすでに、問いと答えの形で「共産主義の原理」という下書きを書いていたが、大会の前にマルクスへ手紙を送り、問答の形はやめて「共産主義者宣言」という題にしよう、と提案していた。
執筆は、ブリュッセルのマルクスが引き受けた。しかし筆は思うように進まなかった。1848年1月、しびれを切らしたロンドンの同盟の中央委員会は、2月1日までに原稿が届かなければ相応の措置を取る、という催促の手紙を送っている。原稿はその後ロンドンに届き、2月、ロンドンのビショップスゲートにあったドイツ人労働者の協会の印刷所で刷られた。ドイツ語で23ページ、暗い緑色の表紙の小冊子で、著者の名は無かった。初版は1000部ほどだったとされる。刊行の日ははっきりしないが、2月21日頃とされることが多い。

宣言は、印象的な一文で始まる。一つの妖怪がヨーロッパを徘徊している、共産主義という妖怪が。ヨーロッパの古い勢力は、教皇から皇帝まで、この妖怪を退治しようと同盟を結んでいる。それならば、共産主義者は自分たちの考えを、世界に向かって公然と示すべきだ、というのである。
第1章は、これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である、と述べる。自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、そしていまはブルジョワジーとプロレタリアートが対立している。宣言は、ブルジョワジーの業績を驚くほど高く評価する。彼らは100年に満たない支配の間に、過去のすべての世代を合わせたよりも巨大な生産力を生み出し、世界市場を作り、すべての国を文明の中へ引き込んだ。しかしその発展は、自らの墓掘り人であるプロレタリアートを生み出した、と宣言は続ける。

第2章は、共産主義者が当面に求めることを、十項目にまとめている。土地所有の廃止と地代の公共への充当、強い累進課税、相続権の廃止、国立銀行への信用の集中、運輸の国有、国営工場の拡大、すべての子どもへの公共の無償教育と児童の工場労働の廃止などである。第3章はほかのさまざまな社会主義を批判し、第4章は各国の反対派の党に対する態度を述べる。そして最後に、プロレタリアは鎖のほかに失うものを持たない、彼らが得るのは全世界だ、と書き、万国のプロレタリア、団結せよ、の呼びかけで結ばれる。
宣言が刷り上がった直後の2月22日、パリで民衆が立ち上がり、国王ルイ・フィリップは退位した。革命はウィーン、ベルリン、ミラノへと広がり、ヨーロッパは1848年革命の渦に呑まれた。予言が当たったかに見えたが、宣言そのものは、革命の中ではほとんど読まれなかった。マルクスはブリュッセルを追われ、ケルンで新聞を出して革命に加わったが、革命は翌年までに各地で鎮められ、マルクスはロンドンに亡命した。共産主義者同盟も、1852年には解散した。

宣言はしばらく忘れられた。1850年にはイギリスで初めての英訳が雑誌に載ったが、広く読まれたわけではなかった。転機は1870年代に訪れた。第一インターナショナルでの活動や、1871年のパリ・コミューンをめぐる論争で、マルクスの名は知られるようになった。1872年、ドイツで新しい版が出て、マルクスとエンゲルスは序文で、当面の要求の部分などはもう古くなったと認めた。その後、各国の社会主義の運動が育つにつれ、宣言はさまざまな言語に訳されていった。日本では1904年、幸徳秋水と堺利彦が週刊『平民新聞』に訳を載せ、新聞は発売を禁じられた。
マルクスはその後、生涯をかけて資本主義の仕組みを分析し、1867年に『資本論』の第1巻を出した。宣言はその理論が出来上がる前の、若い二人による力強い呼びかけの文書である。だからこそ、短く、言い切りの多い文体で書かれ、読む人を動かした。

20世紀、宣言を掲げる党が実際に権力を握った。レーニンの率いるボリシェヴィキが1917年のロシアで、毛沢東の中国共産党が1949年の中国で、さらに東ヨーロッパ、北朝鮮、ベトナム、キューバで、共産党の政権が生まれた。最も広がった頃には、世界の人口の3分の1ほどが、こうした政権のもとで暮らしたとされる。しかし、宣言の描いた階級のない社会は実現せず、多くの国で一党独裁と抑圧が生まれた。1989年のベルリンの壁の崩壊を経て、東ヨーロッパとソ連の共産党政権の多くは倒れた。
それでも宣言は、いまも世界で最も読まれた政治文書の一つであり続けている。グローバルな市場がすべての国を巻き込んでいくという描写は、20世紀の終わりから、むしろ現実に近づいたと言う人もいる。予言は外れたと言う人と、問いはまだ残っていると言う人と。小冊子の最初の一文は、刊行から170年以上たっても、繰り返し引かれている。