人物

フリードリヒ・フレーベル

Friedrich Fröbel
AD1782年4月21日 – AD1852年6月21日(享年70)
ドイツ重要度 3

概要

テューリンゲンの牧師の子。生後9か月で母を失い、孤独な少年期を過ごした。森林管理の徒弟、測量、建築を経て、ペスタロッチの学校で教えた。ナポレオン戦争に義勇兵として従軍。1837年、幼児のための施設を開き、1840年に「キンダーガルテン」と名づけた。球と立方体から始まる20の恩物を設計し、遊びを教育の中心に置いた。1851年、プロイセンが幼稚園を禁止(甥の無神論的な著作と混同された)。その翌年、失意のうちに死んだ。

関わったできごと(1)

フレーベルと幼稚園AD1840年 · 作った

本文

フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベルは1782年4月21日、ドイツ中部テューリンゲンの山あいの村オーバーヴァイスバッハに生まれた。父ヨハン・ヤーコプは村の牧師だった。生後9か月で、彼は母を失った。広い教区を受け持ち、何千人もの信徒を抱えた父は忙しく、幼い息子に構う暇がなかった。父が再婚すると、継母は自分の子が生まれてから彼を疎んじるようになった。

フリードリヒ・フレーベルの肖像
フリードリヒ・フレーベルの肖像Wikimedia Commons C.W. Bardeen, publisher · Public domain

少年は放っておかれた。後年、彼は自分の幼いころのことをくり返し書いている。家から閉め出され、庭や森で一人で過ごしたこと。花や木や流れる水をじっと見ていたこと。そして、誰も自分を見ていなかったこと。10歳のとき、母方の伯父で、近くの町シュタットイルムの牧師に引き取られ、彼は初めて穏やかな暮らしを知った。学校に通い、友だちができた。

15歳で森林官の見習いになり、2年間を森の中で過ごした。植物を集め、幾何学と測量を独学した。自然の中には法則があり、それが結晶にも植物にも人間にも同じように通っている、という彼の後の考えの芽は、この森の日々に生まれた。1799年からイェーナ大学で数学と自然科学を学んだが、学費が続かなかった。父は送金を拒み、彼は借金のために9週間、大学の牢に入れられた。その後は測量や農場の管理の手伝い、役所の書記と職を転々とした。

1805年、建築家になるつもりでフランクフルトに出た彼は、模範学校の校長アントン・グルーナーと知り合った。グルーナーはスイスの教育者ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの弟子で、フレーベルに、あなたは建築家ではなく教師になるべきだと勧めた。フレーベルはその日のうちに教壇に立った。23歳だった。子どもたちの中で、自分は水を得た魚のようだった、と彼は書いている。生涯、彼はこの日を、自分が生まれ直した日として語った。

1808年から2年間、彼はスイスのイヴェルドンにあったペスタロッチの学校で、教えながら学んだ。実物を通して学ぶこと、頭と心と手をともに育てること、教育は愛から始まること。だが不満も残った。ペスタロッチの実践は勘と情熱に支えられていて、原理として整理されていないように見えた。

1813年、ナポレオン・ボナパルトに対するドイツの解放戦争が始まると、彼はプロイセンの義勇軍に加わった。そこで、のちに生涯の協力者となる二人の若い神学生、ハインリヒ・ランゲタールとヴィルヘルム・ミッデンドルフに出会った。二人はフレーベルの構想に人生をささげ、給料もろくに受け取らずに働くことになる。

1816年、彼はテューリンゲンの村に学校を開き、翌年カイルハウに移した。最初の生徒は、亡くなった兄の遺した子どもたちを含むわずか5人だった。子どもたちは自然の中を歩き、庭を作り、体を動かし、手仕事をし、そのうえで数学や言葉を学んだ。教科をばらばらに教えるのではなく、一つの全体として教えようとしたのである。1826年、彼は主著『人間の教育』を出した。神秘的な言葉と長い文に満ちた読みにくい本で、同時代の人もいまの読者も苦労する。だがその中心ははっきりしていた。すべてのものの中に神の統一が働いていて、教育とは、その人が自らそれに気づくのを助けることだ。そして、遊びこそがこの時期の子どもの最も高い発達の表れであり、内なるものの自由な表現である、と。当時、遊びは怠けであり、教育の邪魔ものと考えられていた。彼はそれを教育の真ん中に置いた。

1830年代、彼の関心は学校に上がる前の幼い子どもへ移った。学校に来る子どもたちは、もう何か大切なものを失っているように見えたからだ。彼は幼い子のための遊び道具の設計を始め、1837年にバート・ブランケンブルクに幼児のための施設を開いた。1840年、彼はこれを「キンダーガルテン」、子どもの庭と名づけた(フレーベルと幼稚園)。子どもは庭の草花のように、ふさわしい世話のもとで、自分の内にある力によって育つ。教師は庭師のようにそれを見守る、という考えがこの名にこめられていた。

彼が考えた遊び道具は「恩物」、つまり神からの贈り物と呼ばれた。最初の恩物は、6色の毛糸で編んだ柔らかい球。次が、木の球と円柱と立方体。続いて、さまざまに分けられた積み木、板、棒、輪、点へと進む。さらに、紙を折る、切る、粘土をこねる、糸を編む、砂で形を作るといった作業が加わった。日本の幼稚園でいまも折り紙と積み木が使われているのは、この流れを引いている。1844年には、母親が赤ん坊と一緒に手遊びをしながら歌う歌と絵の本を出した。指と手で小鳥や大工や魚の形を作りながら歌うもので、彼はこれを最も大事な仕事の一つと考えていた。

彼は、幼稚園の先生は女性であるべきだと考え、女性を教師として育てる講習所を作った。公の教育の場で働く女性がほとんどいなかった時代に、これは19世紀のドイツやアメリカで、女性が専門の職に就ける数少ない道の一つになった。もっとも、女性は生まれつき母として子を育てるものだという彼の考えには、のちの女性運動から批判も向けられている。

だが晩年に、思いがけない打撃が来た。1851年、プロイセン政府は幼稚園を禁じた。社会主義と無神論の傾きがあるというのが理由だった。無神論的で社会主義的な本を書いていた甥のカール・フレーベルと混同されたのだ、というのが通説である。1848年の革命のあとの反動の時代で、新しい教育の試みはどれも疑いの目で見られていた。フレーベルは、自分は敬虔なキリスト教徒であり政治とは無縁だと必死に訴えたが、禁止は解かれなかった。1852年6月21日、彼はテューリンゲンのマリエンタールで死んだ。70歳だった。失意のうちに死んだと伝えられる。禁止が解かれたのは、死の8年後の1860年である。

彼の考えを世界に広めたのは、晩年の彼に会って心を動かされた貴族の女性、ベルタ・フォン・マーレンホルツ=ビューローだった。彼女はヨーロッパ中を回って講演し、本を書き、各国に幼稚園を作らせた。ドイツ人の移民たちは、イギリスやアメリカに幼稚園を持ち込んだ。アメリカでは1856年にウィスコンシン州で最初の幼稚園が開かれ、1860年にはボストンで教育者エリザベス・ピーボディが英語の幼稚園を開いた。日本では1876年、東京女子師範学校に附属の幼稚園ができ、恩物を使った保育が始まった。

1876年、アメリカのフィラデルフィア万国博覧会で、ある母親が恩物の展示を見て、それを買って帰り、9歳の息子に与えた。息子の名はフランク・ロイド・ライト。のちに20世紀を代表する建築家となった彼は、自伝で、なめらかな楓の積み木の手触りがいまも指に残っている、という趣旨のことを書いている。彼の建物の幾何学的な形や、碁盤の目のような組み立てに恩物の影響を見る研究は多い。

テューリンゲンのシュヴァイナにある彼の墓の石は、球と円柱と立方体を積み上げた形をしている。二番目の恩物の形である。子どもの遊びに真剣なまなざしを向けた最初の人の一人を、世界中の幼稚園の積み木がいまも記念している。

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