パリ大学の成立
概要
ノートルダムの学校に集まった教師と学生が組合を作り、王から市の裁判権を免れる特権を得た。神学の中心になり、トマス・アクィナスが教えた。ボローニャと並ぶ、大学というものの原型。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
アルベルトゥス・マグヌスAD1200年頃–AD1280年11月15日 · 教授本文
12世紀のはじめ、パリのシテ島にあるノートルダム大聖堂には、聖職者を育てるための学校があった。そこへ、若い論客ピエール・アベラールが現れる。師を議論で打ち負かし、聖書や教父の言葉の食い違いを並べて論理で解きほぐしてみせる彼の講義には、ヨーロッパ中から学生が集まった。エロイーズとの恋と破局で知られる人だが、パリを学問の町にした最初の一人でもある。
学生が集まれば、教師も集まる。セーヌ川の左岸の丘、サント・ジュヌヴィエーヴのあたりには、教会の許しを得て教える教師たちの学校がいくつも開かれた。学生は少年から中年までさまざまで、出身地もフランス、イングランド、ドイツ、イタリアと広く、共通の言葉はラテン語だった。左岸のこの一帯が、のちに「ラテン区」と呼ばれるのはそのためである。

教師たちは、やがて自分たちの組合を作った。ラテン語でウニウェルシタスと呼ばれる。「全体」「団体」を意味するふつうの言葉で、職人や商人の組合にも同じ語が使われた。大学(ユニバーシティ)という言葉は、ここから来ている。少し早く法学で知られたイタリアのボローニャでは、学生たちの組合が中心になったが(ボローニャ大学の創立)、パリでは教師の組合が中心になった。組合は、誰が教えてよいかを自分たちで決め、教師になるための試験を行うことを求めた。それまで教える免許を出していたのは、大聖堂の尚書という役職の聖職者で、両者は何十年も争うことになる。
1200年、パリの酒場で、ドイツ人の学生と店の者とのあいだに喧嘩が起きた。騒ぎが広がると、市の治安を預かる王の役人が手勢を率いて学生の宿に押し入り、何人かの学生が殺された。教師たちは、パリを去ると王に迫った。国王フィリップ2世は役人を投獄して罰し、学生と教師は市の役人ではなく教会の裁判所で裁かれる、という特権を与えた。これが、パリの大学が得た最初の特権とされる。

1215年には、教皇の使節が学則を定め、教える資格の年齢や、講義に使う本を決めた。1229年、またも学生と市民の争いから死者が出ると、教師たちは講義を止め、パリを離れた。教師の罷業である。2年にわたる争いの末、1231年、教皇グレゴリウス9世は大学を「諸学の母」と呼ぶ勅書を出し、自分たちの規則を作る権利と、不当な扱いを受けたときに講義を止める権利を認めた。王からも教会からも一定の距離をとる、自治の団体としての大学が、こうして形になった。
大学は四つの学部からなった。基礎の学芸学部と、その上の神学部、教会法学部、医学部である。学芸学部の学生は、出身地ごとにフランス、ピカルディ、ノルマンディー、イングランドの四つの「国民団」に分かれていた。教科書は貴重で、教師が本文を読み上げて解説し、学生がそれを書きとる講義と、ある問いをめぐって賛否を戦わせる討論が、学びの中心だった。

13世紀、パリは神学の中心になった。ちょうどそのころ、アリストテレスの著作が、イブン・ルシュドらイスラーム世界の注釈とともにラテン語に訳され、どっと流れこんできた。教会は一時その講義を禁じたが、やがて学芸学部の必修になる。信仰と理性をどう両立させるか。ドミニコ会のアルベルトゥス・マグヌスがパリで教え、その弟子のトマス・アクィナスもここで教えて、その答えを壮大な体系にまとめていった。1277年にはパリの司教が、アリストテレスにかぶれすぎた教えとして200あまりの命題を断罪しており、議論の熱さがうかがえる。
1257年、国王ルイ9世に仕える聖職者ロベール・ド・ソルボンが、貧しい神学生のための寮を建てた。のちにパリ大学の神学部そのものがこの名で呼ばれ、ソルボンヌはパリ大学の別名になった。

パリの大学は、ヨーロッパ各地の大学の手本になった。イングランドのオックスフォードは、12世紀の後半、イングランド王と大司教ベケットの争いのころに、パリで学んでいたイングランドの学生が呼び戻されて大きくなった、という説がある。13世紀のオックスフォードの学者たちの多くはパリで学び、帰国して自分たちの大学を作っていった。
教師と学生が組合を作り、試験で資格を与え、学部に分かれて学ぶ。いまの大学の基本の形は、800年あまり前、パリとボローニャで生まれたものである。