延安整風

概要
延安の洞窟の街で、毛沢東が党の「作風を正す」運動を始めた。主観主義、宗派主義、党八股。学習、自己批判、告白。康生が「搶救運動」でスパイを探し、1000人以上を自白させた。王実味が処刑された。ソ連帰りの王明の派が消え、毛沢東思想が党の指導理念になった(1945年)。文革の型が、ここでできた。
場所
36.59°N 109.49°E · 中国・陝西省
関わった人(1)
毛沢東AD1893年12月26日–AD1976年9月9日 · 始めた本文
1937年から、中国共産党は陝西省北部の延安を本拠にした。黄土の崖に掘った洞窟の住まいが並ぶ町で、長征を生き延びた兵士たちに加え、日本との戦争が始まると、全国から学生や作家、知識人が抗日の希望を抱いて集まってきた。その数は数万人にのぼったとされる。抗日軍政大学や魯迅芸術学院が開かれ、延安はしばらく、理想を語り合う若者の町でもあった。
党の中には、二つの流れがあった。一つは、モスクワで学び、コミンテルンの後ろ盾をもつ王明たちの一派で、マルクス・レーニン主義の文献に通じていた。もう一つは、農村で根拠地を作り、長征の途中で軍の主導権を握った毛沢東の側だった。1941年は党にとって苦しい年だった。1月には国民党軍が共産党の新四軍を襲った皖南事変が起き、西安事件のあとに成った国共の協力は形だけになった。日本軍の掃討で、華北の根拠地も縮んでいた。この年の9月、毛沢東は政治局の会議で、王明たちの過去の路線の誤りを批判し始めた。

1942年2月1日、中央党校の開校式で、毛沢東は「党の作風を整頓する」と演説した。正すべきは三つの悪い風だという。学びの風の主観主義、党の風の宗派主義、文章の風の「党八股」である。主観主義とは、外国の理論を中国の実情に合わせずに振り回す教条主義と、自分の経験だけを頼りにする経験主義をいう。2月8日には、決まり文句を並べた空疎な文章を「党八股」として退ける演説をした。マルクス主義を中国の具体的な実践と結びつけよ、事実の中から正しさを求めよ(実事求是)、というのが合言葉になった。
方法は、学習と告白だった。党員は指定された20あまりの文献を読み、学習会で論じ合い、自分の生い立ちと考えの変遷を文書に書いて出した。それをもとに、仲間の前で自分を批判し、他人を批判する。目的は病を治して人を救うことだ、とされた。だが、自分の過去をすべて書き出し、人前で誤りを認める手続きは、一人ひとりを党の前に裸にするものでもあった。

知識人も対象になった。1942年3月、作家の丁玲は、延安でも女性が不平等に扱われていると書き、翻訳家の王実味は随筆「野百合の花」で、幹部が良い服と食事を受け、下の者との間に格差があることを批判した。5月、毛沢東は文芸座談会を開き、文芸は労働者・農民・兵士のためのものであり、政治に奉仕すべきだと述べた。丁玲は自己批判して許されたが、王実味は「トロツキスト」として糾弾され、党籍を奪われて監禁された。1947年、国民党軍に追われて延安を撤退する途中、彼は処刑された。名誉が回復されたのは1991年である。
1943年の夏、整風は別の段階に入った。党の情報と保安を担っていた康生が、国民党のスパイを洗い出す「搶救運動」(失足者を救い出す運動)を始めたのである。各地から延安に来た知識人の多くが疑われ、昼夜を問わない取り調べで「自白」を迫られた。自白した者は他人の名を挙げ、疑いは連鎖して広がった。自ら命を絶った人もいた。犠牲の規模ははっきりしないが、延安の外から来た党員の多くが一度はスパイの疑いをかけられたとされる。年末になって毛沢東は行き過ぎを認め、「一人も殺さず、大部分は捕らえない」という方針で運動を止め、のちに党校で疑われた人々に頭を下げて詫びた。だが、運動を指揮した康生は罰せられなかった。

整風を通じて、王明の一派は力を失った。周恩来もかつての誤りについて自己批判を求められた。1945年4月、党は過去の路線を振り返る「歴史決議」を採択し、党の歴史を、毛沢東の路線が正しく、それに背いた者が誤った歴史として書き直した。続く第7回党大会で、劉少奇は「毛沢東思想」を党の指導理念として掲げ、それは党規約に書き込まれた。党の歴史の中で、一人の指導者の名を冠した思想が規約に入ったのは、これが初めてだった。
延安の整風で、共産党は一つの声で話す組織になった。学習、自分の過去の告白、人前での批判と自己批判、正しい路線と正しい指導者。この型は、建国後の運動で何度も繰り返される。1957年の反右派闘争でも、1966年からの文化大革命でも、人々は自分の思想を書き出し、人前で自分を責めた。康生は文化大革命でも迫害の中心にいた。延安の洞窟で作られた方法は、規律ある党を作った一方で、異論を言う者を消す仕組みも作っていた。