アテナイのアカデメイア閉鎖
概要
ユスティニアヌスが異教の学校を閉じた。古代の学問が公に終わった年としてよく引かれるが、学者は東へ移って続けている。
場所
37.98°N 23.73°E · ギリシア・アッティカ
関わった人(1)
ユスティニアヌス1世AD482年頃–AD565年11月14日 · 命令本文
ユスティニアヌス1世は、帝国を一つの信仰と一つの法でまとめ直そうとした皇帝だった。即位した527年から、ローマ法を整理する事業(ローマ法大全)を始め、同時に異端と異教への締めつけを強めた。529年ごろ、異教徒が人を教えることを禁じる法が出される。年代記作者マララスは、この年アテナイに勅令が送られ、哲学を教えることが禁じられたと書いている。
当時のアテナイの学校は、プラトンが開いた学園(プラトンのアカデメイア)そのものではない。プラトンの学園は紀元前1世紀にローマの将軍スラの包囲で荒廃し、制度としては途切れていた。5世紀に入ってから、プラトンの後継を名乗る哲学者たちが私財で学校を立て直し、プロティノスに始まる新プラトン主義(プロティノスの新プラトン主義)を教えていた。プロクロスがその名を高め、最後の学頭はダマスキオスだった。
それでも、ここはプラトンの名を継ぐ最後の場所と見なされていた。プラトンが学園を開いてから900年あまりになる。そのため529年は「古代の学問が終わった年」としてよく引かれる。偶然にも同じ年、ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カッシーノに修道院を開いたと伝えられ(ベネディクトの戒律)、古代から中世への境目の年として対で語られてきた。

最後の学頭ダマスキオスは、シリアのダマスクスに生まれ、アレクサンドリアで学んだ後にアテナイへ来た人である。プロクロスの体系を受け継ぎながら、あらゆるものの始まりは言葉では言い表せない、と説いた。学校はかなりの財産を持ち、学頭の位は後継者へ受け継がれていたとされる。勅令は教える自由だけでなく、その財産も脅かした。
だが、学問はそこで途切れたわけではない。歴史家アガティアスによれば、ダマスキオスやシンプリキオスら7人の哲学者は、ペルシアのホスロー1世(ホスロー1世の改革)のもとへ移った。ホスローは学問を好む王として名高く、彼らを歓待した。しかし哲学者たちは、王が期待した哲人王ではなかったことに失望し、数年で帰国を望んだという。
帰国にあたって、ホスローは532年にビザンツと結んだ和約に、彼らが改宗を強いられずに暮らせる条項を入れさせた。その後シンプリキオスはアリストテレスの注釈を書き続け、それは現在まで残っている。彼がどこで書いたのかは分からず、ペルシアとの国境に近いハランだったとする説もある。
閉鎖がどこまで実際に行われたかも、議論がある。法が出た後も、教えることがしばらく続いたと見る研究者もいる。アレクサンドリアの学校はキリスト教徒の学者を中心に7世紀まで続いた。

529年は、キリスト教徒の側から古代哲学に挑む仕事が出た年でもある。アレクサンドリアのヨハネス・ピロポノスは、この年、世界は永遠に存在するというプロクロスの主張に反論する書を著した。ギリシア哲学の道具を使って、キリスト教の天地創造を擁護しようとしたのである。哲学そのものが禁じられたのではなく、誰がどの立場から使うのかが問われていた。
ギリシアの学問は、別の道を通って生き延びた。シリア語に訳され、7世紀以降はイスラム世界でアラビア語に訳され、9世紀にはバグダードの知恵の館で組織的に受け継がれた。イスラム世界の学者たちはそれに注釈を重ね、イブン・ルシュドのアリストテレス注釈のような大きな仕事が生まれる。12世紀、トレドの陥落の後のトレドで、それがラテン語に訳されてヨーロッパへ戻ってきた。

アカデメイアという名も消えなかった。15世紀のフィレンツェでは、メディチ家の庇護のもとでプラトンを読む学者の集まりがこの名で呼ばれた。そこから「アカデミー」という言葉が、学問や芸術の団体を指す語としてヨーロッパに広まっていく。
閉じられた場所から、知識のほうが出ていった。529年は、学問が終わった年というより、学問の中心が地中海の西から東へ移っていく節目の年として見るほうが実態に近い。