プラトン
概要
ソクラテスの弟子。アカデメイアを開き、対話篇によって西洋哲学の枠組みを作った。
所属
アテナイ関わったできごと(1)
プラトンのアカデメイアBC387年 · 創設本文
紀元前427年頃、アテナイの名門の家に生まれた。生年には前428年とする説もある。父方は古い王家の血を引くと称し、母方は改革者ソロンの家系につながる。本名はアリストクレスで、プラトンは「広い」を意味するあだ名だったと後世の伝記作家は書くが、確かではない。

生まれたのはペロポネソス戦争が始まった直後で、少年時代から青年時代はアテナイとスパルタの長い戦争の中にあった。若い頃は詩や悲劇を書いていたとも伝えられる。20歳前後でソクラテスと出会い、その仲間に加わった。
紀元前404年、アテナイが戦争に敗れると、スパルタの後ろ盾で三十人の寡頭政権が生まれた。その中心には母の従兄弟クリティアスや叔父カルミデスがいて、彼も政治に加わるよう誘われた。だが政権は反対派を次々に殺し、ソクラテスにまで無実の市民の逮捕に加担させようとした。プラトンは失望して距離を置く。やがて民主政が戻ったが、紀元前399年、その民主政がソクラテスを裁判にかけ、死刑にした(ソクラテスの死)。

師が国家に殺されるのを見た。政治家になるつもりだったが、それをやめている。晩年に書いたとされる『第七書簡』に、法も慣習も崩れていく中で、正しい人が正しく扱われない国のあり方を、根本から考え直すしかないと思うに至った経緯が語られている。この書簡が本当に彼の書いたものかには議論がある。
ソクラテスの死後、アテナイを離れて各地を旅した。南イタリアでは数学を重んじるピュタゴラス派の学者たちと交わり、紀元前388年頃にはシチリアのシュラクサイを訪れて、独裁者ディオニュシオス1世の宮廷に入った。王の義弟で若いディオンと親しくなったが、王の機嫌を損ね、帰りの船で奴隷として売られかけた。知人に買い戻されて帰国できたという話が伝わる。

紀元前387年頃、アテナイ郊外の英雄アカデモスの聖域の近くに学園を開いた(プラトンのアカデメイア)。アカデメイアと呼ばれ、数学、天文学、哲学を共に学び議論する場だった。入り口に「幾何学を知らぬ者は入るべからず」と掲げてあったという話は、ずっと後の時代の記録にしか出てこない。学園は形を変えながら、529年のアテナイのアカデメイア閉鎖まで900年以上続いたとされる。17歳で入門したアリストテレスは、ここで20年学んでいる。
書いたのは対話篇だった。自分の考えを直接述べず、登場人物に語らせる。たいていソクラテスが主役になり、街角や宴の席で、勇気とは何か、正義とは何か、恋とは何かを相手に問いかける。相手の答えの矛盾が明らかになり、結論の出ないまま終わる作品も多い。真作とされる対話篇はおよそ30篇あり、そのすべてが失われずに伝わった。古代の哲学者としてはまれなことである。

イデア論——目に見えるものの背後に、完全な原型がある、という考えは、中期の対話篇で語られる。私たちが見る美しいものはどれも不完全で移ろうが、美しさそのものは永遠で変わらない。『国家』では、洞窟の奥に縛られて壁に映る影だけを見てきた人々のたとえで、それを語っている。影を本物と思い込んでいた人が外へ連れ出され、太陽の光に目を慣らしていく過程が、学ぶということだとされた。
『国家』で描いたのは、哲学を学んだ者が統治する国になる。国を守る者たちには私有財産も家族も無く、子は共同で育てられる。生まれつきの資質に応じて人の役割を分け、詩や音楽も国の監督の下に置く。現代の目には、全体主義に見える面がある。20世紀、哲学者ポパーは、プラトンを開かれた社会の敵の源流の一人として厳しく批判した。

理想は、現実でも試された。紀元前367年、ディオニュシオス1世が死ぬと、ディオンの招きで再びシュラクサイへ渡り、若い後継者ディオニュシオス2世を哲学者の王に育てようとした。だが宮廷の争いに巻き込まれ、ディオンは追放された。紀元前361年に三度目に渡ったときには、事実上の軟禁状態に置かれ、知人の仲介でようやく帰国できた。シチリアの僭主に理想を実現させようとして三度渡り、三度失敗したことになる。のちにディオンは武力でシュラクサイを奪ったが、まもなく暗殺された。
晩年に取り組んだ最後の大作『法律』では、哲学者の王に頼るのをやめ、法の支配による次善の国を描いた。財産の共有の考えも和らげられている。紀元前347年、80歳ほどで死んだ。婚礼の宴の席で亡くなったとも、書きものをしながら亡くなったとも伝えられる。

『ティマイオス』に記された、海に沈んだ島アトランティスの物語も、彼の対話篇から生まれた。イデア論は、のちにプロティノスの新プラトン主義の新プラトン主義を経てキリスト教の神学に取り込まれ、西洋の思想が2000年かけて反論し続けた相手になる。20世紀の哲学者ホワイトヘッドは、西洋哲学の伝統はプラトンへの一連の脚注から成る、と評した。