人物

道元

Dōgen
AD1200年1月26日 – AD1253年9月22日(享年53)
鎌倉幕府重要度 5

概要

内大臣の子と伝える。3歳で父、8歳で母を失った。比叡山で「本来仏なら、なぜ修行するのか」と問い、栄西の門を叩き、宋へ。天童山の如浄に「身心脱落」。帰って「只管打坐」。『正法眼蔵』。北条時頼に呼ばれて鎌倉に半年いて、寺の寄進を断って永平寺に帰った。

関わったできごと(1)

道元の永平寺AD1244年 · 開いた

本文

道元は1200年、京に生まれた。父は内大臣の久我通親(または子の通具)、母は摂政を務めた松殿基房の娘と伝えられるが、母の名も出自も確かではない。3歳で父を、8歳で母を失った。母の葬儀で、香の煙が立ちのぼって消えていくのを見て、世の無常を深く感じたと伝えられる。

道元禅師の肖像
道元禅師の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

13歳で比叡山に登り、翌年出家した。天台の教えでは、人はもともと仏の性質を備えている、と説く。少年の道元はそこで一つの疑問にとらわれた。人がもとから仏であるのなら、なぜ昔の仏たちはあれほど厳しい修行をしたのか。比叡山の僧たちはこの問いに満足な答えを出せなかった。道元は山を下り、宋から禅を伝えた栄西が開いた京の建仁寺に入った。栄西は1215年に没しており、道元が栄西本人に会えたかどうかは説が分かれる。道元が師としたのは、栄西の弟子の明全だった。

1223年、24歳の道元は明全とともに宋へ渡った。船が港に着いたばかりのころ、阿育王山から日本の椎茸を買いに来た老いた典座(寺の食事係)と出会った。道元が、なぜ年老いてまで坐禅や読経でなく炊事のような雑事をするのかと尋ねると、老僧は笑い、あなたはまだ修行というものも文字というものも分かっていない、と答えたという。後に道元は『典座教訓』でこの出会いを書き、食事を作ること、掃除をすることも修行そのものだと説いた。

月を眺める道元。宝慶寺所蔵、1250年頃
月を眺める道元。宝慶寺所蔵、1250年頃Wikimedia Commons Shii · Public domain

道元は天童山などで修行したが、なかなか心から納得できる師に出会えなかった。1225年、天童山の住持となった如浄に入門する。如浄は名利を嫌い、ひたすら坐禅することを説く厳格な師だった。ある夜明けの坐禅中、居眠りをする僧を如浄が「坐禅は身心脱落でなければならない。眠っていて何になる」と叱った。その言葉を聞いた瞬間、道元は悟りを得たと伝えられる。身も心も抜け落ちる、という意味である。同じ年、ともに渡った明全は天童山で病に倒れて亡くなり、道元はその遺骨を抱いて帰ることになる。

1227年に帰国した道元は、すぐに『普勧坐禅儀』を書き、坐禅こそがすべての人に開かれた仏法の正門だと説いた。ただひたすら坐る「只管打坐」である。坐禅は悟りを得るための手段ではなく、坐ることがそのまま悟りの姿である、という「修証一等」の考えが、少年のころの疑問への答えだった。1233年、京の南の深草に興聖寺を開き、弟子が集まり始めた。のちに後を継ぐ懐奘が入門したのもこの頃で、懐奘が書き留めた『正法眼蔵随聞記』には、修行者はまず貧しくあれ、衣食のことを思い煩うな、といった道元の言葉が残っている。

永平寺
永平寺Wikimedia Commons 雷太 · CC BY 2.0

だが比叡山の圧力は強く、1243年、道元は越前の地頭だった波多野義重の招きで、京を離れて山深い越前に移った。翌1244年に大仏寺を開き、1246年に永平寺と改めた(道元の永平寺)。永平寺はいまも曹洞宗の大本山である。

1247年、道元は鎌倉の執権北条時頼に招かれ、半年ほど鎌倉に滞在して教えを説いた。時頼は寺を建てて寄進しようとしたが、道元は受けずに永平寺へ戻った。後の伝記によれば、時頼の寄進状を持ち帰って喜んだ弟子の玄明を、道元は寺から追い出し、玄明の坐っていた僧堂の床板を切り取り、その下の土まで掘って捨てさせたという。権力者に近づくことへの道元の嫌悪を伝える話である。

永平寺の法堂。道元の時代から様々な法要が行われてきた
永平寺の法堂。道元の時代から様々な法要が行われてきたWikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

1253年、病が重くなった道元は、治療のため京に上り、8月28日(旧暦)、京の俗弟子の家で死んだ。54歳。遺偈には「五十四年、第一天を照らす」とある。後を懐奘が継いだ。

道元が生涯をかけて書き続けた『正法眼蔵』は、日本語で仏法の核心を語ろうとした、ほとんど類のない書物である。時間を論じた「有時」の巻では、時は飛び去るものとだけ理解してはならない、と書き、存在がそのまま時である、と説く。「一切衆生悉有仏性」という経典の句を、「一切は衆生なり、悉有は仏性なり」と読み替えて、あらゆるものが仏性そのものだと示した。その難解な文章は長く宗門の中だけで読まれていたが、1920年代に和辻哲郎が「沙門道元」で一人の思想家として論じてから、哲学者たちにも読まれるようになった。

道元の著書『普勧坐禅儀』
道元の著書『普勧坐禅儀』Wikimedia Commons Dogen Zenji · Public domain

同じ時代に法然や親鸞が念仏による救いを説いたのに対し、道元は坐ることだけを説いた。道元自身は「禅宗」と呼ばれることさえ嫌い、自分は釈迦から伝わった仏法をそのまま伝えているだけだと考えていた。彼は哲学者と呼ばれることも望まなかっただろう。ただ坐れ、と言っただけである。

道元が書いたものは思想の書だけではない。永平寺では、修行僧の食事の作り方を説いた『典座教訓』、食事の受け方と食べ方を事細かに定めた『赴粥飯法』、僧堂での振る舞いの規則などを書き、日々の暮らしのすべてを修行として組み立てた。顔の洗い方、歯の磨き方、便所の使い方にまで作法がある。坐禅だけでなく、生活のすべてを仏の行いにすること、それが道元の考えた修行の姿だった。今日の永平寺の修行も、その規則を受け継いでいる。

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