ピコ・デッラ・ミランドラ
概要
伯爵の子。ボローニャ、パドヴァ、パリ。ヘブライ語、アラビア語、カバラ。900の命題。教皇に禁じられ、フランスで捕まり、ロレンツォが救った。人妻と駆け落ちして捕まった。サヴォナローラの信者になった。31歳で死んだ。2007年、骨から砒素。
関わったできごと(1)
ピコ『人間の尊厳について』AD1486年 · 著者本文
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラは1463年2月24日、北イタリアの小さな領邦ミランドラの領主、ミランドラとコンコルディアの伯爵家の末子として生まれた。母ジュリアは、のちに騎士物語『恋するオルランド』を書く詩人ボイアルドの叔母にあたる。早くから並外れた記憶力で知られ、家族は彼を聖職者にしようと考えていた。

14歳でボローニャ大学に送られ、教会法を学んだが、2年ほどでやめた。母の死後、フェラーラ、パドヴァ、パヴィアと大学を渡り歩き、哲学を学んだ。パドヴァでは、アリストテレスの注釈者として名高いイスラームの哲学者イブン・ルシュド(アヴェロエス)の学説が盛んに講じられており、ピコはユダヤ人の学者エリア・デル・メディゴからその思想を学んだ。ギリシア語をはじめ、ヘブライ語、アラム語、アラビア語にも手を伸ばした。のちにはユダヤ教から改宗した学者フラウィウス・ミトリダテスの助けを借りて、ユダヤ教の神秘思想カバラの書物に分け入った。キリスト教の学者がカバラを本格的に研究したのは、ピコがほぼ最初だとされる。
1484年ごろ、ピコはフィレンツェに出て、ロレンツォ・デ・メディチを中心とする学者や詩人の輪に加わった。そこには、プラトンの全著作をラテン語に訳していたマルシリオ・フィチーノや、詩人ポリツィアーノがいた。コンスタンティノープル陥落の前後からギリシアの学問がイタリアに流れこみ、フィレンツェはプラトン研究の中心になっていた(イタリア・ルネサンスの盛期)。若い伯爵は、その中でもひときわ目立つ存在だった。1485年から翌年にかけてはパリにも学んでいる。

1486年5月、23歳のピコは騒ぎを起こした。アレッツォで、メディチ家の縁者で徴税の役人だった男の妻マルゲリータを連れて逃げ出したのである。すぐに追手に捕まり、斬り合いになって従者に死者が出た。ピコ自身も傷を負って捕らえられたが、ロレンツォ・デ・メディチのとりなしで事は収められた。
この年の暮れ、ピコはさらに大胆な計画を世に出した。哲学と神学のあらゆる分野から900の命題を選んでローマで印刷し、翌年の初めにヨーロッパ中の学者をローマに招いて公開で討論しよう、と呼びかけたのである。遠方から来る学者には旅費を出すとまで言った。ギリシアの哲学者、アラブの注釈者、カバラ、古代の秘教まで、あらゆる知恵は一つの真理を別々の言葉で語っている、ということを示すのが狙いだった。その開会のために書いた演説が、のちに『人間の尊厳について』の題で知られる文章である(ピコ『人間の尊厳について』)。神は人間にだけ定まった場所を与えず、天使にも獣にもなりうる自由を与えた、という一節は、ルネサンスの人間観を語るときにいまも引かれる。

だが、討論は開かれなかった。教皇インノケンティウス8世は計画を差し止め、委員会に命題を調べさせた。委員会は13の命題を、異端あるいは異端の疑いがあると判断した。ピコは急いで弁明の書を出したが、これがかえって教皇を怒らせ、1487年、教皇は900の命題すべてを断罪した。ピコはフランスへ逃れたが、1488年の初め、教皇の求めによってリヨンの近くで捕らえられ、パリ近郊のヴァンセンヌに一時とどめられた。イタリアの君主たちのとりなしで解放され、フィレンツェへ戻った。
その後のピコは、ロレンツォの保護を受けて、フィレンツェ郊外のフィエーゾレの別荘で静かに著作に打ちこんだ。旧約聖書の天地創造の7日間を多層的に読み解いた『ヘプタプルス』、プラトンとアリストテレスは根本で一致すると論じた『存在と一について』を書き、晩年には、星の動きで人の運命を占う占星術を厳しく批判する大部の書に取り組んだ。1493年、新しい教皇アレクサンデル6世によって、彼は異端の疑いを正式に解かれた。

晩年のピコは、ドミニコ会の修道士サヴォナローラに深く傾倒した。財産の多くを手放し、貧しい人々に施し、修道会に入ることも考えていたという。ピコがロレンツォにサヴォナローラをフィレンツェへ呼ぶよう勧めた、とも伝えられる。
1494年11月17日、ピコはフィレンツェで熱病のために急死した。31歳だった。奇しくもその日、イタリアに攻めこんだフランス王シャルル8世が、フィレンツェに入城している(イタリア戦争)。友人ポリツィアーノも、その2か月ほど前に亡くなったばかりだった。ピコの死には当時から毒殺の噂があり、秘書が毒を盛ったと自白したとも伝えられる。2007年、二人の遺骨がサン・マルコ修道院の墓から掘り出されて調べられ、ピコの遺骨からは毒殺をうかがわせる量の砒素が見つかったと発表された。ただし、誰がなぜ毒を盛ったのかは分かっていない。

ピコはドミニコ会の修道服をまとってサン・マルコに葬られた。葬儀の説教でサヴォナローラは、ピコは修道会に入るのをためらい続けたために、いま魂は煉獄にいる、と語ったと伝えられる。遺された著作は、甥のジャンフランチェスコが1496年に全集としてまとめて出版した。あの演説も、このとき初めて世に出た。「人間の尊厳について」という題はピコ自身がつけたものではなく、のちの版で添えられたものである。
19世紀にスイスの歴史家ブルクハルトがこの演説をルネサンスの最も高貴な遺産の一つとたたえて以来(物語「『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス」)、ピコは「ルネサンスの人間」の象徴として語られてきた。一方で近年の研究は、彼の関心の中心が、人間の自由そのものよりも、異なる教えを一つの真理へ結び合わせることにあったと指摘している。早熟で、大胆で、教会とぶつかり、最後は禁欲の説教者に身を寄せた31年の生涯は、ルネサンスという時代の振れ幅をそのまま映している。