できごと

ろう学校と手話

Institut National de Jeunes Sourds de Paris
AD1760年頃
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1760年頃の版図を描いています(25勢力)。

概要

パリの司祭ド・レペが、街で出会った二人のろうの姉妹に教えるところから始めた。彼はろう者が既に互いの間で使っていた身振りの言葉に気づき、それを土台にした。ここが重要である。話し言葉を教え込むのではなく、彼らの言葉で教える。1760年頃に無償の学校を開き、公開の授業で生徒に質問させて世に示した。フランス手話がここから広がり、ガローデットがアメリカへ運んだ。一方、19世紀後半には口話法が優勢になり、多くの国で手話が学校から締め出された。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

18世紀まで、生まれつき耳の聞こえない人は、多くの社会で「教育できない者」とみなされていた。耳が聞こえなければ言葉を持てず、言葉を持てなければ理性を持てない。アリストテレスの書いたものに由来するとされたこの考えが、長く影響を及ぼした。法の上でも、ろう者は契約を結ぶことや財産を相続することを制限される場合があった。

例外はあった。16世紀のスペインでは、修道士ペドロ・ポンセ・デ・レオンが貴族のろうの子どもたちに読み書きと発音を教え、17世紀にはフアン・パブロ・ボネットが指で文字を表す方法の本を出した。イギリスでは数学者ジョン・ウォリスも教育を試みている。だがいずれも、跡取りに財産を継がせたい裕福な家の子に、個人的に教えるものだった。

シャルル=ミシェル・ド・レペは、1712年、ヴェルサイユで王の建築家の家に生まれた。聖職を志したが、教会の中で異端視されていたジャンセン派に近いと疑われ、司祭として教区を任されることはなかった。決まった持ち場を持たない聖職者として、彼はパリで暮らしていた。

1760年ごろ、彼はある家で二人の姉妹に出会ったと伝えられる。話しかけても返事がない。母親が、娘たちは耳が聞こえず、教えてくれていた神父が亡くなったばかりだと打ち明けた。ド・レペは、二人を引き受けることにした。

彼が気づいたのは、姉妹が互いに身振りでよく通じ合っていることだった。それまでの教育者の多くは、ろうの子に声を出させ、唇の形を真似させ、話し言葉を覚えさせることを目標にしていた。ド・レペは逆に考えた。この子たちにはすでに言葉がある。それを使って教えればよい。当時のパリには、街に暮らすろう者たちのあいだで自然に使われていた手の言葉がすでにあった。ド・レペはそれを発明したのではなく、見つけたのである。

彼はろう者たちから身振りを学び、そこに、フランス語の文法を書き表すための記号を付け加えた。動詞の時制や名詞の性と数、冠詞などを示す手の動きで、「方法的手話」と呼ばれる。この人工的な部分は、のちに、ろう者自身の言語の仕組みを無視してフランス語の形を上からかぶせたものだと批判され、彼の死後しだいに使われなくなった。残ったのは、ろう者たちがもともと持っていた手話のほうだった。

ド・レペはパリの自宅に学校を開き、私財を投じて、授業料を取らずに子どもたちを受け入れた。集まったのは、貧しい家のろうの子どもたちである。一部の裕福な子への個人教授ではなく、身分を問わず誰でも学べる学校だったことが、それまでとの決定的な違いだった。

彼は公開の授業も行った。見学者が紙に質問を書いて渡すと、生徒が書いて答える。宗教や文法の難しい問いにも、生徒たちはよどみなく答えてみせた。ろう者が考え、学べることを、目の前で示したのである。ヨーロッパ各地から見学者が訪れ、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世もその一人だった。各国の教育者がここで学び、自国に学校を開いた。

1789年の暮れ、フランス革命が始まった年に、ド・レペは世を去った。学校には60人を超える生徒がいた。1791年、国民議会は学校を国の施設とし、パリ国立聾唖学校が生まれた。後を継いだシカール神父が教授法をまとめ直した。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

この学校の手話は海を渡った。1815年、アメリカの牧師トマス・ホプキンズ・ギャローデットが、ろう教育を学ぶためにヨーロッパへ来た。イギリスで口話法の学校を営むブレイドウッド家は、その方法を家業の秘密として教えようとしなかった。パリのシカールが彼を受け入れた。ギャローデットは、パリの学校で教えていた優れたろうの教師ローラン・クレールを伴って帰国し、1817年、コネチカット州ハートフォードにアメリカ最初の常設のろう学校を開いた。

そこに、各地から来たろうの子どもたちが持ち込んだ土地ごとの手話が加わった。遺伝による難聴の人が多く、聞こえる島民まで手話を使っていたマサチューセッツ沖のマーサズ・ヴィニヤード島の手話もその一つである。フランスの手話とそれらが混ざり合い、アメリカ手話が形づくられていく。1864年には、ギャローデットの息子が初代の学長を務める大学がワシントンに開かれた。いまのギャローデット大学である。

19世紀の後半、流れは逆を向く。手話を使えばろう者は自分たちだけの世界に閉じこもる、話せるように訓練して聞こえる人の社会に溶け込ませるべきだ、という口話法の主張が力を得た。その強力な推進者の一人が、ベルの電話で知られるアレクサンダー・グラハム・ベルだった。母も妻も耳が聞こえず、彼自身ろう者に発音を教える教師だった。ベルはまた、ろう者どうしの結婚が「ろうの人種」を生むとして、それを避けるべきだと論じる文章も書いている。

1880年、イタリアのミラノで国際ろう教育会議が開かれた。164人の参加者のうち、ろう者は1人だけだったとされる。会議は、口話法が手話より疑いなく優れているとし、ろう教育は口話で行うべきだと決議した。以後、多くの国の学校で手話が締め出された。教室で手を動かした子どもが手を叩かれたり、手を縛られたりしたという証言が各地に残る。日本でも1933年、全国の盲唖学校の校長会議で口話法が奨励され、手話は学校から追いやられた。

風向きが変わったのは20世紀の後半である。1960年、アメリカの言語学者ウィリアム・ストーキーが、アメリカ手話は身振りの寄せ集めではなく、手の形と位置と動きを組み合わせて単語を作り、独自の文法を持つ、れっきとした言語であることを示した。1988年にはギャローデット大学の学生たちが、聞こえる人を学長に選んだ大学に抗議して構内を封鎖し、1週間で初めてのろう者の学長を就任させた。2010年、カナダで開かれた国際ろう教育会議は、ミラノの決議を正式に退け、それが与えた害を認めた。日本では2011年の障害者基本法の改正で、手話が言語であることが法に書き込まれた。

ド・レペの墓は、パリのサン=ロック教会にある。彼の功績は、ろう者に言葉を与えたことではなかった。ろう者がすでに言葉を持っていることに気づき、それを学校の言葉にしたことである。

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