博愛社
概要
西南戦争のさなか、元老院議官の佐野常民と大給恒は、ヨーロッパで見た赤十字のような救護団体を作ろうとした。政府は初め、許さなかった。反乱軍の兵まで手当てするというのが、引っかかったとされる。佐野は熊本の征討総督の本営まで出向いて、有栖川宮熾仁親王に直接願い出て、許しを得た。救護員は官軍の兵とともに、薩摩軍の負傷兵も手当てした。日本がジュネーヴ条約に加わったのは九年後で、翌年、博愛社は日本赤十字社と名を改めた。内戦で敵を手当てすることから、日本の赤十字は始まった。
場所
32.80°N 130.71°E · 日本・熊本県
本文
佐野常民(1823〜1902年)は、佐賀藩の藩医の家に養子に入り、若いころに蘭学と医学を学んだ。やがて藩の精錬方で蒸気機関や大砲の研究に携わり、技術に明るい藩士として知られるようになる。1867年、彼は佐賀藩の一員としてパリの万国博覧会に出向いた。そこには、数年前にジュネーヴで生まれたばかりの赤十字の活動を紹介する展示があった。戦場で傷ついた兵士を、敵味方の区別なく手当てする。その考え方は佐野の心に残った。1873年には、明治政府の副総裁としてウィーンの万国博覧会に赴き、ふたたび赤十字の活動に触れている。
もう一人の大給恒(1839〜1910年)は、三河の奥殿藩の藩主で、のちに信濃の田野口へ本拠を移した大名だった。明治になってからは政府に仕え、佐野とともに元老院の議官を務めていた。

1877年2月、西郷隆盛が鹿児島で兵を挙げた(西南戦争)。薩摩軍は熊本城を囲み、北の田原坂では政府軍との激しい戦いが何週間も続いた。双方に多くの死傷者が出た。政府軍の病院は自軍の兵で埋まり、薩摩軍には病院と呼べるものがほとんど無かった。傷ついた薩摩の兵は、戦場に置き去りにされるおそれがあった。
佐野と大給は、敵味方なく手当てをする救護の団体を作ろうと考え、名を「博愛社」とした。政府に設立を願い出たが、許されなかった。戦場に民間の者が入ることへの懸念があり、前例も無かった。何より引っかかったとされるのは、救護の相手に反乱を起こした側の兵が含まれていることだった。賊軍を手当てするのか、というわけである。

佐野はあきらめなかった。彼は自ら熊本へ向かい、政府軍を率いる征討総督の本営に乗り込んだ。総督は有栖川宮熾仁親王である。1877年5月1日、佐野は親王に直接、設立を願い出た。願書の趣旨はこうである。敵の兵であっても、傷ついて戦えなくなれば、もとは同じ国の民である。それを手当てしないのは人の道に外れる。救護の費用は社の側で負担する。親王は願いを聞き入れ、設立を許した。東京の政府ではなく、戦場を預かる者がその場で決めたのである。
救護員たちは戦地に入り、政府軍の兵とともに薩摩軍の負傷兵も手当てした。このとき博愛社は、赤い十字を印に使わなかった。日の丸の下に赤い横線を一本引いた印を用いた。十字はキリスト教を思わせるからである。日本でキリスト教の禁制を記した高札が撤去されてから、まだ4年しかたっていなかった。

戦争が終わっても、博愛社は解散しなかった。戦争が起きてから慌てて人を集めるのではなく、平時から人と物を備えておく。それは赤十字の原点となった『ソルフェリーノの思い出』の中で、アンリ・デュナンが訴えたことでもあった。佐野たちは皇族や華族の支援を得て、組織を少しずつ育てていった。
1886年、日本は第一回ジュネーヴ条約に加盟した。アジアの国としては早い加盟である。欧米との不平等条約を改めたい日本にとって、「文明国」の取り決めに加わることには、外交のうえでも意味があった。翌1887年、博愛社は日本赤十字社と名を改め、印も赤い十字になった。初代の社長には佐野が就いた。

その翌年の1888年7月、福島県の磐梯山が噴火し、山の北側の集落が土砂に埋まって多くの死者が出た。日本赤十字社は医師と看護人を送り、戦争ではない災害で初めての救護活動を行った。戦争のための団体が、平時の災害にも出動する。この形はのちに、世界の赤十字にとって当たり前のことになっていく。日本赤十字社はその後、看護婦の養成にも力を入れ、日清・日露の戦争では大勢の救護員を戦地や病院船に送った。佐野は1902年に死ぬまで、社の中心にあり続けた。
日本の赤十字は、外国との戦争ではなく、内戦の中で始まった。敵は同じ国の人々である。だからこそ、かえって難しかった。反乱を起こした者を手当てすることは、反乱を認めることのように見えたからだ。それを許したのが、東京の政府ではなく戦場の総督だったことは興味深い。戦場にいる者には、傷ついた兵が、どちらの側の者かより先に、まず傷ついた人に見えたのかもしれない。

それから半世紀あまりのうちに、日本赤十字社は国の戦争に深く組み込まれていく。救護の看護婦たちは軍とともに大陸や南方へ送られ、多くが帰らなかった。中立を保つことの難しさは、ここでも繰り返されることになる。敵の兵を手当てすることから始まった組織の歩みは、人道と国家の間に立ち続けることの重さを物語っている。