できごと

博愛社

Hakuaisha
AD1877年(明治10年)5月1日
重要度 4
ロシア帝国大英帝国清中央アジアの諸ハン国スペイン帝国イギリス東インド会社ラタナコーシン朝(シャム)ビルマ日本安南朝鮮王朝AssamフィリピンカンボジアアラカンAD1877年(明治10年)5月1日熊本
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概要

西南戦争のさなか、元老院議官の佐野常民と大給恒は、ヨーロッパで見た赤十字のような救護団体を作ろうとした。政府は初め、許さなかった。反乱軍の兵まで手当てするというのが、引っかかったとされる。佐野は熊本の征討総督の本営まで出向いて、有栖川宮熾仁親王に直接願い出て、許しを得た。救護員は官軍の兵とともに、薩摩軍の負傷兵も手当てした。日本がジュネーヴ条約に加わったのは九年後で、翌年、博愛社は日本赤十字社と名を改めた。内戦で敵を手当てすることから、日本の赤十字は始まった。

場所

熊本
32.80°N 130.71°E · 日本・熊本県

本文

佐野常民(1823〜1902年)は、佐賀藩の藩医の家に養子に入り、若いころに蘭学と医学を学んだ。やがて藩の精錬方で蒸気機関や大砲の研究に携わり、技術に明るい藩士として知られるようになる。1867年、彼は佐賀藩の一員としてパリの万国博覧会に出向いた。そこには、数年前にジュネーヴで生まれたばかりの赤十字の活動を紹介する展示があった。戦場で傷ついた兵士を、敵味方の区別なく手当てする。その考え方は佐野の心に残った。1873年には、明治政府の副総裁としてウィーンの万国博覧会に赴き、ふたたび赤十字の活動に触れている。

もう一人の大給恒(1839〜1910年)は、三河の奥殿藩の藩主で、のちに信濃の田野口へ本拠を移した大名だった。明治になってからは政府に仕え、佐野とともに元老院の議官を務めていた。

元熊本洋学校教師館ジェーンズ邸で有栖川宮熾仁親王から日本赤十字社の前身組織である博愛社設立の許可を受ける佐野常民。
元熊本洋学校教師館ジェーンズ邸で有栖川宮熾仁親王から日本赤十字社の前身組織である博愛社設立の許可を受ける佐野常民。Wikimedia Commons Takeo Terasaki · Public domain

1877年2月、西郷隆盛が鹿児島で兵を挙げた(西南戦争)。薩摩軍は熊本城を囲み、北の田原坂では政府軍との激しい戦いが何週間も続いた。双方に多くの死傷者が出た。政府軍の病院は自軍の兵で埋まり、薩摩軍には病院と呼べるものがほとんど無かった。傷ついた薩摩の兵は、戦場に置き去りにされるおそれがあった。

佐野と大給は、敵味方なく手当てをする救護の団体を作ろうと考え、名を「博愛社」とした。政府に設立を願い出たが、許されなかった。戦場に民間の者が入ることへの懸念があり、前例も無かった。何より引っかかったとされるのは、救護の相手に反乱を起こした側の兵が含まれていることだった。賊軍を手当てするのか、というわけである。

明治20年、日本赤十字社の初代総裁である小松宮彰仁親王
明治20年、日本赤十字社の初代総裁である小松宮彰仁親王Wikimedia Commons Public domain

佐野はあきらめなかった。彼は自ら熊本へ向かい、政府軍を率いる征討総督の本営に乗り込んだ。総督は有栖川宮熾仁親王である。1877年5月1日、佐野は親王に直接、設立を願い出た。願書の趣旨はこうである。敵の兵であっても、傷ついて戦えなくなれば、もとは同じ国の民である。それを手当てしないのは人の道に外れる。救護の費用は社の側で負担する。親王は願いを聞き入れ、設立を許した。東京の政府ではなく、戦場を預かる者がその場で決めたのである。

救護員たちは戦地に入り、政府軍の兵とともに薩摩軍の負傷兵も手当てした。このとき博愛社は、赤い十字を印に使わなかった。日の丸の下に赤い横線を一本引いた印を用いた。十字はキリスト教を思わせるからである。日本でキリスト教の禁制を記した高札が撤去されてから、まだ4年しかたっていなかった。

日本赤十字社本部 1910年(明治43年)当時
日本赤十字社本部 1910年(明治43年)当時Wikimedia Commons 望月小太郎 · Public domain

戦争が終わっても、博愛社は解散しなかった。戦争が起きてから慌てて人を集めるのではなく、平時から人と物を備えておく。それは赤十字の原点となった『ソルフェリーノの思い出』の中で、アンリ・デュナンが訴えたことでもあった。佐野たちは皇族や華族の支援を得て、組織を少しずつ育てていった。

1886年、日本は第一回ジュネーヴ条約に加盟した。アジアの国としては早い加盟である。欧米との不平等条約を改めたい日本にとって、「文明国」の取り決めに加わることには、外交のうえでも意味があった。翌1887年、博愛社は日本赤十字社と名を改め、印も赤い十字になった。初代の社長には佐野が就いた。

東京の日本赤十字社病院 1910年(明治43年)当時
東京の日本赤十字社病院 1910年(明治43年)当時Wikimedia Commons 望月小太郎 · Public domain

その翌年の1888年7月、福島県の磐梯山が噴火し、山の北側の集落が土砂に埋まって多くの死者が出た。日本赤十字社は医師と看護人を送り、戦争ではない災害で初めての救護活動を行った。戦争のための団体が、平時の災害にも出動する。この形はのちに、世界の赤十字にとって当たり前のことになっていく。日本赤十字社はその後、看護婦の養成にも力を入れ、日清・日露の戦争では大勢の救護員を戦地や病院船に送った。佐野は1902年に死ぬまで、社の中心にあり続けた。

日本の赤十字は、外国との戦争ではなく、内戦の中で始まった。敵は同じ国の人々である。だからこそ、かえって難しかった。反乱を起こした者を手当てすることは、反乱を認めることのように見えたからだ。それを許したのが、東京の政府ではなく戦場の総督だったことは興味深い。戦場にいる者には、傷ついた兵が、どちらの側の者かより先に、まず傷ついた人に見えたのかもしれない。

武内桂舟画「看護婦」1904年。奥に病院船が描かれている
武内桂舟画「看護婦」1904年。奥に病院船が描かれているWikimedia Commons Takeuchi Keishū · Public domain

それから半世紀あまりのうちに、日本赤十字社は国の戦争に深く組み込まれていく。救護の看護婦たちは軍とともに大陸や南方へ送られ、多くが帰らなかった。中立を保つことの難しさは、ここでも繰り返されることになる。敵の兵を手当てすることから始まった組織の歩みは、人道と国家の間に立ち続けることの重さを物語っている。

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