カルネアデスのローマ訪問
概要
アテナイの三人の哲学者が使節として来た。アカデメイアの学頭は一日目に正義を讃え、二日目に正義を否定して、同じ聴衆を説得した。大カトーは「早く帰らせよ」と言った。ローマの若者が哲学を知った日、とされる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(2)
カルネアデスBC214年–BC129年 · 哲学者大カトーBC234年–BC149年 · 追い出した本文
紀元前2世紀の半ば、ギリシアの諸都市はローマの強い影響の下にあった。紀元前168年のピュドナの戦いでマケドニア王国が倒れ、ギリシアの政治はローマの意向で動くようになっていた。紀元前156年ごろ、アテナイは近隣の町オロポスを略奪し、ローマの裁定で500タラントンという巨額の罰金を科された。アテナイは、減額を求める使節をローマに送ることにした。
選ばれたのは、アテナイを代表する三つの哲学の学派の長だった。プラトンが開いたアカデメイアの学頭カルネアデス(プラトンのアカデメイア)、ストア派の学頭でバビロニアのセレウケイア出身のディオゲネス、アリストテレスの流れをくむペリパトス派の学頭クリトラオス。武力ではなく弁論で交渉しようという人選だった。紀元前155年、三人はローマに着いた。交渉の結果、罰金は100タラントンに減らされた。

元老院の返事を待つあいだ、三人は町で講義を開いた。ギリシア語の弁論を聞こうと、ローマの若者が大勢集まった。なかでも聴衆を沸かせたのがカルネアデスだった。彼は一日目、正義について論じ、プラトンやアリストテレスにならって、正義は自然に根ざした最高の徳であることを説いた。二日目、同じ場所で、同じ主題を取り上げ、前の日の議論をすべて壊してみせた。正義は自然のものではなく、人が自分の利益のために作った取り決めにすぎない、と。
この二日目の議論は、のちにキケロが『国家について』の中で取り上げ、それを4世紀のキリスト教の著述家ラクタンティウスが引いたことで、断片が伝わっている。カルネアデスは言った。どの国も、他人の土地を奪って大きくなった。ローマも、もし正義に従って奪ったものをすべて返すなら、もとの小屋に戻るほかない。船が難破し、一枚の板にすがれば助かるとき、賢者は自分より弱い者からその板を奪うべきか。奪えば不正であり、奪わなければ愚かである。この問いは、のちに「カルネアデスの板」と呼ばれ、緊急の場合の行為をめぐる法と倫理の議論で、いまも引かれる。キケロのこの本は長く失われていたが、1819年、ヴァチカン図書館の写本の下に消されていた文字から、その一部が見つかった。

カルネアデスは、確かな真理を知ることはできないとする懐疑派の哲学者だった。どんな主張にも、同じ強さの反対の主張を立てることができる、と彼は示そうとした。何も書き残さず、その教えは弟子の記録を通して伝わる。断定の代わりに、もっともらしさの度合いによって行動すればよい、というのが彼の答えだった。二日間の講義は、その方法を目の前で演じてみせたものだった。
これを苦々しく見ていたのが、大カトーだった。プルタルコスによれば、カトーは、若者たちが軍事や政治よりも弁論に心を奪われるのを恐れ、元老院で、使節たちの用件を早く片づけて帰らせるよう求めた。彼らがいるあいだ、若者は法と政務官の言うことを聞かなくなる、というのである。カトーは、ソクラテスでさえ口が達者で、国の慣習を覆そうとしたおしゃべりだったと言ったと伝えられる。使節たちは、まもなく帰された。

ただし、ギリシアの学問がこのとき初めてローマに入ったわけではない。ローマの上流の家には、すでにギリシア人の家庭教師がいた。ピュドナの戦いのあとには、ポリュビオスのようなギリシアの知識人が人質としてローマに連れてこられ、小スキピオらの若い貴族と親しく交わっていた。紀元前161年には、元老院が哲学者と弁論の教師をローマから追い出す決議をしていたが、効き目はなかった。カトー自身も、晩年にはギリシア語を学んだとされる。
それでも、二日で逆のことを論証したという話は、哲学がいかに魅力的で、いかに危険なものかを、ローマ人に強く印象づけた。理屈でどちらの側も擁護できるという技術は、法廷で弁じるローマの弁論家にとって、得がたい武器だった。のちにキケロは、アカデメイアの懐疑派の立場を自らのものとし、あらゆる問題を両方の側から論じることを、弁論家の修行の要とした。ローマの法と弁論の伝統の一つの源は、この使節の滞在にあったともいえる。