ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ
概要
チューリヒ。5歳で父を失った。ルソーの『エミール』。ノイホーフの農場で貧民の子を教えて破産(1774〜80年)。『隠者の夕暮』『リーンハルトとゲルトルート』(小説で教育を説いた。ヨーロッパ中で読まれた)。シュタンツ。ブルクドルフ、イヴェルドン。「頭・心・手」。直観、生活、母。子供の側から。フレーベル、ヘルバルトが学びに来た。「私は自分自身の全部を、自分の子供たちに与えた」。
関わったできごと(1)
ペスタロッチのシュタンツ孤児院AD1799年1月 · 住んだ本文
1746年1月12日、チューリヒ。父ヨハン・バプティストは外科医で、1751年に死んだ。母ズザンナ・ホッツと、女中バーベリ。貧しく、大事に育てられた。「女中の子(マムシュリ)」と、いじめられた。祖父アンドレアス(ヘンクの牧師)の村で夏を過ごして、農民の子を見た。1763年、コレギウム・カロリヌム(チューリヒの学院。ボードマーとブライティンガーの啓蒙)。「愛国者」(ヘルヴェティア協会、若い共和主義者。ラヴァーター)。ルソー『エミール』(1762年。「私は、想像の中で、この非現実的な本の中で、自分の子供を育てた」)。牧師を諦め、法学を諦め、農業へ。
1769年、アンナ・シュルテス(裕福な商人の娘、8歳年上)と結婚(両家が反対した)。ビルの近くのノイホーフに農場(借金で)。茜(染料)。失敗。1774年、農場に貧しい子供を集めて、綿を紡がせ、織らせながら、読み書きと農業を教えた。「貧民学校」。50人。1780年、破産。友人が去った。「私は、25歳から、自分の企画の失敗の中で生きた」。妻の財産も消えた。
書いた。『隠者の夕暮』(1780年。「玉座の上の人も、藁葺きの下の人も、同じ人間」。「人間よ、汝自身の力を信じよ」)。『リーンハルトとゲルトルート』(1781〜87年、4巻。ボンナールの村。飲んだくれの石工リーンハルトと、妻ゲルトルート。ゲルトルートが子供を、暮らしの中で教える。領主と、牧師と、教師が、村を変える。ヨーロッパ中で読まれた。「教育小説」)。『クリストフとエルゼ』。『立法と嬰児殺し』(1783年)。『探究』(1797年。人類の自然の状態、社会の状態、道徳の状態)。フィヒテが読んだ。1792年、フランス革命政府の名誉市民(シラー、ワシントン、ペイン、ウィルバーフォースと同じ日)。
1798年、ヘルヴェティア共和国。『ヘルヴェティア民衆新聞』の編集。12月、シュタンツ。1799年6月、終わり。
1799年7月、ブルクドルフ。小学校で試験的に教えた(保護者が「変な男」と抗議した)。1800年、城で学校。「教育の方法」。「直観(アンシャウウング)」。子供が自分の感覚で、数(1から10、点、線)、形(測る、描く)、言葉(音、名前、文)を。「ABCの直観」。母親のための本(『母の書』)。1801年、『ゲルトルートはいかにその子を教えるか』(14通の手紙。「私は、自分の考えを、生活の中の教えとして、形にした」)。訪問者。ヘルバルト(1799年)、フィヒテ、ヘーゲル?(違う)、ナポレオンの側近(1802年。パリでナポレオンに会おうとして、「私はABCを教えるために時間を使わない」と断られた、と伝える)。1804年、ミュンヘンブーフゼー、フェレンベルクと(合わなかった)。
1805年、イヴェルドン(ヌーシャテル湖の南)。城。学校、教員養成所、女子校、聾唖の子の学校。生徒250人(スイス、ドイツ、フランス、ロシア、スペイン、イギリス、アメリカ)。教師(ニーデラー、シュミット、クリュージ、トブラー)。ヨーロッパ中から見学者。プロイセンの教育改革(フンボルト、ジュフェルン)はペスタロッチの方法で教師を養成した(1808年から留学生を送った)。フレーベル(1808〜10年)。「私の学校は、私の手を離れた」。教師たちの争い(ニーデラーとシュミット)。1815年、アンナが死んだ。1825年、閉鎖。ノイホーフへ帰った。『白鳥の歌』(1826年。「生活が教育する」。自分の失敗の総括)。
1827年2月17日、ブルック。81歳。ビルの村の教会の脇に。墓碑(1846年)。「ノイホーフの貧民の救い主。/リーンハルトとゲルトルートの中の民衆の説教者。/シュタンツの孤児の父。/ブルクドルフとミュンヘンブーフゼーの民衆学校の創始者。/イヴェルドンの人類の教育者。/人間、キリスト者、市民。/全てを他者のために、自分には何も。/その名に祝福あれ」。
「子供は、教えられるのでなく、育つ」。