鐙と騎士
概要
鐙は中国で4世紀に、アヴァールが6世紀にヨーロッパへ。鐙に足を掛けて、槍を脇に挟んで突撃すると、馬の重さが槍に乗る(「衝撃戦」)。リン・ホワイトは1962年、「鐙が騎士を生み、騎士を養う土地の制度(封建制)を生んだ」と論じた。カール・マルテルが教会の土地を騎士に配った(732年)。反論も多い。確かなのは、8世紀から、鎧の騎兵が戦場の主で、それを養うのに村一つが要った、ということ。
場所
46.58°N 0.34°E · フランス
本文
鐙は、鞍から下げて足を掛ける輪である。鐙が無いと、騎手は膝と腿で馬の胴を締めて体を支えるしかない。それでも馬に乗ることはでき、弓を射ることもできた。スキタイやパルティアの騎馬の弓兵は鐙なしで草原を制し、アレクサンドロスの騎兵も、ローマの騎兵も鐙を知らなかった。
鐙がはっきり現れるのは中国である。302年の年号をもつ長沙の墓から出た陶製の騎馬の人形には、乗るときに足を掛けるための片側だけの鐙が見え、322年ごろの南京の近くの墓からは、両側に鐙を描いた人形が出ている。5世紀から6世紀にかけて、鐙は朝鮮半島の高句麗の壁画に描かれ、日本の古墳からも出るようになる。西へは、中央アジアの遊牧民アヴァールが6世紀の後半にハンガリーの平原へ持ち込み、600年ごろのビザンツの兵法書にも鐙が出てくる。フランク人の土地に広まったのは、8世紀ごろからとみられている。
1962年、アメリカの歴史家リン・ホワイトは『中世の技術と社会変動』の第1章で、この小さな道具に大きな役割を与えた。鐙に足を踏ん張れば、騎手は長い槍を脇に挟んで固定し、駆ける馬の重さと勢いをそのまま槍の穂先に乗せて敵にぶつけることができる。「衝撃戦」である。これを行うには、重い鎧と、大きな軍馬と、長い訓練が要る。8世紀の前半、フランク王国の宮宰カール・マルテルは、教会の土地を取り上げて家臣に分け与え、そのかわりに騎兵として仕えさせた。ホワイトは、これをトゥール・ポワティエ間の戦いのあと、鐙による新しい戦い方に応じて騎兵を養うための改革と見た。土地と軍事の奉仕を交換する仕組み、つまり封建制は、鐙から生まれた、というのである。

この大胆な説は、すぐに多くの反論を受けた。8世紀のフランク人の墓からは、鐙はほとんど出てこない。カール・マルテルが教会の土地に手をつけたのには、内乱の中で味方に報いるといった別の理由が考えられる。槍を脇に固定した騎兵の突撃がはっきり確かめられるのは11世紀の後半、ヘイスティングズの戦い(ヘイスティングズの戦い)を描いたバイユーの刺繍画や第一回十字軍のころで、鐙が西へ来てから300年ほどもあとになる。さらに、中国も朝鮮も日本も鐙を持っていたのに、ヨーロッパと同じ形の社会にはならなかった。鐙は騎士が生まれるための条件の一つではあっても、それだけで社会の形が決まるわけではない。そもそも「封建制」と呼ばれるものが、時代と地域によって大きく違っていた。
それでも、8世紀から後、フランク王国の軍の中心が、次第に歩兵から重装の騎兵へ移っていったことは確かである。カール大帝の時代には、一定の土地を持つ者は馬と鎧をそろえて出陣することを求められた。騎兵はとても高くついた。軍馬は普通の馬の何倍もの値がし、鎖帷子、兜、剣、槍、盾をそろえ、替えの馬と従者を連れ、若いうちから訓練を続けなければならない。それをまかなうのは、土地を耕す農民の労働だった。一人の騎士を養うには、村一つほどの土地が要った。
11世紀の初め、フランスのラン司教アダルベロンは、世の中は祈る者、戦う者、働く者の三つからなると書いた。戦う者としての騎士は、このころから一つの身分として固まっていく。だが騎士たちの暴力は、農民や教会にも向かった。教会は「神の平和」(神の平和)や「神の休戦」の運動で、それに歯止めをかけようとし、1095年には、その力を聖地へ向けるよう呼びかけた(十字軍の呼びかけ)。騎士の叙任は教会の儀式で清められ、南フランスの吟遊詩人たちは、貴婦人に恋い焦がれる騎士の姿を歌った。武器を持つ男たちを、宗教と礼節で包もうとする試みが、のちに「騎士道」と呼ばれるものになった。

騎士が戦場の主役でなくなったのは、14世紀からである。クレシーの戦いやアザンクールの戦いでは、イングランドの長弓の兵がフランスの騎士を射すくめ、スイスの長槍の歩兵は密集した隊列で騎兵の突撃をはね返した。やがて火器が広まり、騎士は馬を降りて戦うようになる。それでも「騎士」は、身分と称号と物語の中に生き残った。
ホワイトの説は、細部ではほとんど支持されなくなった。それでも、鐙と騎士の話は、技術が社会を変えるのか、社会が技術を選ぶのか、という問いを論じるときに、いまも真っ先に持ち出される例であり続けている。