できごと

イブン・ルシュドのアリストテレス注釈

Ibn Rushd's commentaries on Aristotle
AD1180年頃
重要度 4
北極圏の海獣狩猟民クマン=キプチャク連合フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民アイユーブ朝ムラービト朝キエフ・ルーシサーミ神聖ローマ帝国東ローマ帝国マクリアノルウェールーム・セルジューク朝ポーランド王国ハンガリー王国スウェーデンアルワブルガール可汗国ガーナ帝国アランIcelandic CommonwealthカネムガーナPrussiansEnglandケルト系の諸王国Leónマリデンマークブルゴーニュスコットランドポロツク公国エルサレム王国Takrurフランス王国Dutchy of BeneventoAD1180年頃コルドバ
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概要

ギリシア語を読めないまま、アラビア語訳から本文と注釈を精密に書き分けた。哲学と啓示は矛盾しないと論じ、ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれる。

場所

コルドバ
37.89°N -4.78°E · スペイン・アンダルシア州

関わった人(1)

イブン・ルシュドAD1126年–AD1198年12月10日 · 著者

本文

12世紀の後半、イスラーム教徒が治めるスペイン、アンダルスの町コルドバで、一人の法学者が、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの著作に、ほぼすべてにわたって注釈を書いた。イブン・ルシュド、ラテン語でアヴェロエスと呼ばれる人物である。その注釈は、後にヨーロッパの大学でアリストテレスを読むための手引きになった。

イブン・ルシュドは1126年、コルドバで、代々法学者を出してきた名家に生まれた。祖父は町の最高の裁判官を務めた人物だった。彼自身も、イスラームの法学を学んで裁判官となり、同時に医学、天文学、哲学を学んだ。

コルドバにあるイブン・ルシュドの像
コルドバにあるイブン・ルシュドの像Wikimedia Commons Public domain

当時のアンダルスと北アフリカを治めていたのは、ベルベル人の王朝ムワッヒド朝だった。1169年頃、宮廷の医者で哲学者のイブン・トゥファイルが、イブン・ルシュドをカリフのアブー・ヤアクーブに引き合わせた。カリフは、いきなり、哲学者たちは天が永遠だと考えているのか、それとも始まりがあると考えているのか、と尋ねた。イブン・ルシュドは、答えれば危ういと思って黙っていたが、カリフ自身が哲学に通じているのを見て、ようやく話しはじめた、と伝えられる。

カリフはアリストテレスを読みたがっていたが、アラビア語の訳文は難しく、意味が取りにくいとこぼしていた。誰か、それを分かりやすく説明してくれる者はいないか。イブン・トゥファイルは、自分は年を取りすぎたとして、この仕事をイブン・ルシュドに頼んだ。彼が自分から志願したのではなかった。

イブン・ルシュドはギリシア語を読めなかった。アリストテレスの著作は、9世紀から10世紀にバグダードで(バグダードの知恵の館)、多くはシリア語を経てアラビア語に訳されたものを読むしかなかった。それでも彼は、訳文の食い違いを比べ、アリストテレス自身の言葉と、後の注釈者たちが付け加えた解釈とを、丁寧に区別しようとした。アリストテレスを、それまでの新プラトン主義の解釈から引きはがし、本来の考えに戻すことを目指した。

バグダードの知恵の館に関わる図版:Maqamat hariri
バグダードの知恵の館Wikimedia Commons Zereshk · Public domain

彼は同じ著作に、長さの違う三種類の注釈を書いた。要点だけをまとめた短い注釈、本文の筋を言い換えて説明する中くらいの注釈、そして本文を一節ずつ引用して詳しく論じる長い注釈である。その仕事は、裁判官として、またカリフの医者としての務めのかたわら、30年近く続いた。

彼が論じたのは、アリストテレスの解説だけではない。『決定的論考』と呼ばれる短い本で、彼は、哲学と啓示(神の教え)は矛盾しない、と論じた。真理は真理と矛盾しない。コーランは、人々に世界をよく考えるよう求めており、論証の力を持つ者にとって、哲学を学ぶことはむしろ義務だ、と。人々には、物語や比喩で語られる教えがふさわしい者もいれば、論証で語られる教えがふさわしい者もいる。言葉づかいが違うだけで、指し示す真理は同じだ、と彼は考えた。

イブン・ルシュドの失寵
イブン・ルシュドの失寵Wikimedia Commons Louis Figuier (15 February 1819 – 8 November 1894) · Public domain

また、1世紀ほど前の神学者ガザーリーが、哲学者たちを厳しく批判した本(ガザーリー『哲学者の矛盾』)に対して、イブン・ルシュドは一節ずつ反論する本を書いた。題は、ガザーリーの本の題をもじった「矛盾の矛盾」である。

イスラーム世界では、この立場は主流にならなかった。晩年の1195年、カリフのマンスールは、イブン・ルシュドを宮廷から遠ざけ、コルドバの近くの町へ追放した。その著作の一部が焼かれたとも伝えられる。キリスト教徒との戦いを控え、保守的な法学者たちの支持を得る必要があったためとする見方がある。まもなく許されてマラケシュに呼び戻されたが、1198年にその地で死んだ。

その注釈を読み継いだのは、むしろ他の世界だった。13世紀の初め、彼の注釈はラテン語に訳され、パリやオックスフォードの大学で、アリストテレスを読むための標準の手引きになった。ラテン世界の学者たちは、アリストテレスを「哲学者」と呼び、イブン・ルシュドを、名前ではなく「注釈者」とだけ呼んだ。ダンテ・アリギエーリは『神曲』の地獄の第一圏、洗礼を受けずに死んだ偉人たちが住む辺獄に、大いなる注釈を書いたアヴェロエスとして彼を置いている。

『神曲』に関わる図版:Dante Domenico di Michelino
『神曲』Wikimedia Commons Domenico di Michelino / After Alesso Baldovinetti · Public domain

その影響は、教会を悩ませもした。パリ大学では、彼の解釈に従って、人の知性はすべての人に共通の一つだけのものだ、と論じる学者たちが現れた。それが正しいなら、一人ひとりの魂が死後に裁かれるという教えが成り立たなくなる。トマス・アクィナスは、この考えに反論する論文を書いた。1270年と1277年、パリの司教は、こうした主張を禁じた。それでもトマス自身、アリストテレスを理解するうえで、注釈者に多くを負っていた。

彼の著作はヘブライ語にも訳され、ユダヤ人の学者たちにも熱心に読まれた。同じコルドバ生まれのマイモニデスも、晩年にその注釈を読んで高く評価したと伝えられる。

トマス・アクィナス賛美図に描かれたイブン・ルシュド
トマス・アクィナス賛美図に描かれたイブン・ルシュドWikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

いま、イブン・ルシュドの多くの著作は、アラビア語の原文よりも、ラテン語訳やヘブライ語訳のほうが多く残っている。イスラーム世界の哲学者の仕事が、キリスト教とユダヤ教の世界で読み継がれ、ヨーロッパの学問の土台の一部になった。

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