できごと

墨子の兼愛と非攻

Mozi's universal love and non-aggression
BC430年頃
年に諸説あり重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民アケメネス朝ペルシア原アルタイ系の牧畜民周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国鉄器時代の巨石文化縄文後期アイヌマガダクルパンチャーラアヴァンティBC430年頃曲阜
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC430年頃の版図を描いています(14勢力)。

概要

職人の出の思想家が、身内をひいきする儒家を退け、すべての人を等しく愛せと説いた。攻める戦争を否定し、守る技術を弟子に教え、実際に城を守りに出向いた。秦のあと、その学派は消えた。

場所

曲阜
35.60°N 116.99°E · 中国・山東省

関わった人(1)

墨子BC470年頃–BC390年頃 · 思想家

本文

墨子、名は墨翟。紀元前5世紀の後半、孔子が死んで間もないころの人で、魯の国の人とも宋の国の人とも言われる。生まれや身分ははっきりしないが、木工や機械に通じ、職人の世界に近い出だったと考えられている。「墨」という姓は、罪人の入れ墨に由来するという説や、大工が線を引く墨縄にちなむという説まである。前漢の書物『淮南子』によれば、墨子ははじめ儒家の学問を学んだが、その礼が煩わしく、手厚い葬式が財を損ない、民を貧しくすると考えて離れ、自分の道を開いた。

時代は春秋から戦国へ移り(三家分晋(戦国時代の始まり))、大国が小国を呑み込む戦争が絶え間なく続いていた。墨子は、天下の乱れの根を「別」、つまり区別して差をつけることに見た。人は自分の家を愛して他人の家を愛さないから、他人の家から盗む。自分の国を愛して他国を愛さないから、他国を攻める。ならば、他人の家を自分の家のように、他国を自分の国のように見ればよい。これが「兼愛」である。儒家が説く、まず親を、次に親族を、そして他人を、という順序のある愛を、墨子は「別愛」と呼んで退けた。

前2世紀の墓から出土した『墨子』の竹簡
前2世紀の墓から出土した『墨子』の竹簡Wikimedia Commons Huangdan2060 · CC0

この考えは、そのまま「非攻」につながる。『墨子』の非攻篇は、こんな順で問いを重ねる。他人の果樹園に入って桃やすももを盗めば、誰もが悪いと言う。犬や豚を盗めば、もっと悪い。牛や馬を盗めば、さらに悪い。人を一人殺せば不義とされ、必ず死罪になる。十人を殺せば十倍の不義、百人なら百倍の不義である。ところが、他国を攻めて何万人も殺すことになると、人びとはそれを不義と呼ばず、かえって義と称え、歴史に書き残す。白と黒の区別がつかない者と同じではないか、と。

墨子の思想は、ほかにもいくつかの柱からなる。家柄にかかわらず賢い者を用いる「尚賢」、手厚い葬儀と長い喪をやめる「節葬」、費用を切り詰める「節用」、宮廷の音楽を無駄として退ける「非楽」、運命が決まっているという考えを否定する「非命」。そしてそれらすべての根拠として、天はすべての人を等しく愛し養っているのだから、人もそれに倣わなければならない、という「天志」を置いた。鬼神は実在して善悪に報いるとも説いた(「明鬼」)。

墨子の肖像
墨子Wikimedia Commons Vjacheslav Rublevskiy · CC0

墨子が他の思想家と違ったのは、戦争に反対するだけでなく、攻められる側を実際に守りに行ったことである。『墨子』の公輸篇によれば、楚の国に仕える名工の公輸盤が、城壁をよじ登るための雲梯という新兵器を作り、楚は宋を攻めようとしていた。それを聞いた墨子は十日十夜歩き通し、足の裏が裂けると衣を裂いて巻き、楚の都にたどり着いた。王の前で、墨子は帯を解いて城壁に見立て、木の札を武器にして、公輸盤と机上で攻防を競った。公輸盤は九度攻め方を変え、墨子は九度それを防いだ。公輸盤の手は尽き、墨子の守りの手にはまだ余りがあった。

公輸盤は、あなたに勝つ方法を知っているが、言わずにおこう、と言った。墨子は、それは私を殺せばよいということだろう、と見抜いて答える。だが私の弟子の禽滑釐ら300人が、すでに私の守りの道具を持って宋の城の上で待っている。私を殺しても、守りは崩れない。楚の王は宋を攻めることをあきらめた。帰り道、宋を通った墨子は雨に遭い、町の門で雨宿りをしようとしたが、門番に追い払われた。その国を救ったのが誰なのか、門番は知らなかった。

曲阜の地図。現在の城郭都市と、漢代などの城郭の跡
曲阜の地図。現在の城郭都市と、漢代などの城郭の跡Wikimedia Commons Kallgan · Public domain

墨子の弟子たちは、「鉅子」と呼ばれる指導者のもとに固い規律で結ばれた集団を作った。粗末な服を着て、昼も夜も働き、苦しみを自分の務めとした。城を守る技術を磨き、『墨子』には城門や城壁の守り方、地下道への対抗策を記した篇が今も残る。光が小さな穴を通ると像が逆さまに映ることを記した部分や、論理学の議論もある。ある鉅子は、守ると約束した城を守りきれず、弟子183人とともに命を絶ったと『呂氏春秋』は伝える。

戦国時代、墨家は儒家と並ぶ最大の学派だった。孟子は、天下の議論は楊朱か墨翟のどちらかに帰する、と嘆き、親を他人と区別しない墨子の兼愛は、父をないがしろにする獣の道だと激しく批判した。『韓非子』も、世に名高い学問は儒と墨だと書いている。ところが秦が天下を統一し、漢の時代に儒家が国の学問になると、墨家は急速に姿を消した。理由はよく分かっていない。統一によって守るべき小国がなくなったこと、厳しすぎる規律が人を遠ざけたことなどが挙げられる。

『韓非子』に関わる図版:Hanfeizi or Han Feizi, Qing dynasty, Hunan Museum
『韓非子』Wikimedia Commons Huangdan2060 · Public domain

『墨子』の書は2000年近くほとんど読まれず、文字の誤りだらけで伝わった。19世紀の終わり、清の学者孫詒譲がそれを校訂し、西洋の思想と出会った中国の知識人たちが、墨子の兼愛をキリスト教の隣人愛になぞらえ、その論理学と科学を見直した。2016年、中国が打ち上げた世界初の量子通信の実験衛星には、「墨子」の名がつけられている。

同じ時代のできごと

アマゾンの黒い土BC5世紀〜AD10世紀背もたれのある椅子BC5世紀ネヘミアのエルサレム城壁再建BC445年ローマのケンススBC443年頃ソフォクレス『オイディプス王』BC429年頃パルテノン神殿の完成BC432年ペロポネソス戦争BC431年ヘロドトス『歴史』BC430年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC430年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →