人物

エリエゼル・ベン・イェフダー

Eliezer Ben-Yehuda
AD1858年1月7日 – AD1922年12月16日(享年64)
イギリス委任統治領パレスチナ重要度 4

概要

リトアニアの生まれ。本名はペレルマン。イェシーバーで学び、そこで世俗の書に触れて追い出された。パリで医学を志し、結核で断念する。1881年、妻とともにエルサレムへ移り、家庭でヘブライ語しか使わないと決めた。長男イタマルは、その言語の最初の母語話者である。新聞を出し、語を作り、辞書の編纂に生涯を費やした。正統派の一部は、聖なる言葉を日常に落とすことに強く反対した。辞書は死後、十七巻で完成した。

関わったできごと(1)

ヘブライ語の復活AD1881年 · 始めた

本文

エリエゼル・ベン・イェフダーは1858年1月7日、当時ロシア帝国の一部だったリトアニアの村ルジキに生まれた。本名はエリエゼル・イツハク・ペレルマン。家は信仰の篤いハシディズムの一派に属し、彼は3歳で宗教の初等学校に入った。5歳で父を亡くし、13歳でタルムード(ユダヤの律法と注解の集成)を学ぶ学院に送られた。

エリエゼル・ベン・イェフダー
エリエゼル・ベン・イェフダーWikimedia Commons Ya'ackov Ben-Dov · Public domain

ところがその学院の指導者は、ひそかにユダヤ啓蒙運動に共感する人で、少年に世俗の本を読ませた。聖書の言葉ではない、文法書としてのヘブライ語の本。そしてロシアの小説。それが家族に知れて、彼は学院から追い出された。その後、ギムナジウムに通ってロシア語の教育を受け、社会主義やロシアの民族主義の思想にも触れた。

転機は1877年に始まったロシアとオスマン帝国の戦争(露土戦争)だった。オスマン帝国の支配からブルガリアが自立していくのを、彼は新聞で追った。小さな民族が、自分の言葉と自分の土地を取り戻していく。ならばユダヤ人にも同じことができるはずだ。後年の回想で、彼はこのとき、天が開けたように、ユダヤの民の再生とその土地での言語の再生という考えが降りてきた、という趣旨のことを書いている。1879年、彼はヘブライ語の雑誌に論文を寄せ、民族が生き延びるには土地と言語が要り、その言語はヘブライ語でなければならない、と論じた。

エリエゼル・ベン・イェフダーと2番目の妻ヘムダ、1912年
エリエゼル・ベン・イェフダーと2番目の妻ヘムダ、1912年Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

当時、ヘブライ語は祈りと学問と書き物の言葉だった。会話で母語として話す人は、およそ1700年以上前からいなかった。各地のユダヤ人は、イディッシュ語やラディーノ語、アラビア語、ロシア語など、住む土地の言葉で暮らしていた。

彼はパリで医学を学んでいたが、結核と診断されて学業をあきらめた。そして1881年10月、妻デボラとともにパレスチナに渡り、エルサレムに住み着いた。船の上で、これからはヘブライ語だけで話すと決めたとされる(ヘブライ語の復活)。暮らしは極度に貧しく、教師や新聞の仕事で食いつないだ。

執筆中のエリエゼル・ベン・イェフダー
執筆中のエリエゼル・ベン・イェフダーWikimedia Commons Shlomo Narinsky (died 1960), first published 1918 in Jerusalem (see talk ) · Public domain

1882年に長男ベン・ツィオン(のちのイタマル・ベン=アヴィ)が生まれると、父はこの子にヘブライ語しか聞かせないと決めた。ほかの言葉を話す使用人を置かず、訪ねてくる客も選んだ。母デボラがロシアの子守歌を口ずさんだのを聞いて激怒した、という話まで伝わっている。いまの目で見れば問題の多い育て方で、当時も周囲から批判された。だがその子は、長い年月を経て、ヘブライ語を最初の言葉として話す最初の人の一人になった。

辞書がなければ暮らしの言葉は話せない。古いヘブライ語には、新聞、自転車、アイスクリーム、タオルにあたる語がなかった。彼は聖書やタルムード、中世の詩や哲学の書を読み直して忘れられた語を掘り起こし、なければ古い語根から新しい語を作った。作った語を、自分の出す新聞で使い、人々に広めた。彼が生涯をかけたのが『古代および現代ヘブライ語大辞典』である。生前に出たのは5巻だけで、残りは死後、妻と息子たちが引き継ぎ、1959年に全17巻で完成した。

新聞『ハツヴィ』
新聞『ハツヴィ』Wikimedia Commons אליעזר בן יהודה . Original uploader was תמרה at he.wikipedia · Public domain

家族には悲劇が続いた。1891年、デボラが結核で死に、子どもたちのうち3人もまもなくジフテリアで死んだ。翌年、彼はデボラの妹ヘムダと結婚した。デボラの遺言だったとされる。ヘムダもヘブライ語を学び、夫の新聞と辞書を支えた。

聖なる言葉を日常の用に落とすことに、正統派のユダヤ教徒の一部は激しく反発した。エルサレムの超正統派の共同体は彼を破門した。1893年から翌年にかけては、彼の新聞の記事が反乱を呼びかけていると訴えられ、オスマンの当局に投獄されている。告発したのは、彼を嫌う同じユダヤ人だったと言われる。

エルサレム・タルピオの自宅で執筆するベン・イェフダー(1918〜22年頃)
エルサレム・タルピオの自宅で執筆するベン・イェフダー(1918〜22年頃)Wikimedia Commons Ya'ackov Ben-Dov · Public domain

1922年12月16日、ベン・イェフダーはエルサレムで、長年患った結核のため死んだ。64歳だった。同じ年、イギリスの委任統治政府は、ヘブライ語を英語、アラビア語と並ぶパレスチナの公用語の一つと定めていた。葬儀には3万人が集まったとされ、遺体はオリーヴ山に葬られた。

長く、彼はヘブライ語をたった一人でよみがえらせた男として語られてきた。だが近年の研究は、その像を修正している。ヘブライ語は死に絶えていたわけではなく、読み書きや、言葉の違う共同体どうしの連絡には使われ続けていた。そして話し言葉としての復活を実際に成し遂げたのは、移民の開拓村の学校の教師たちだった。彼らはあらゆる科目をヘブライ語で教え、子どもたちは校庭でヘブライ語で遊び、けんかをした。世界中から来た移民には、ほかに共通の言葉がなかったことも大きい。

ベン・イェフダーと妻ヘムダ・ヨナス(1912年)
ベン・イェフダーと妻ヘムダ・ヨナス(1912年)Wikimedia Commons Ya'ackov Ben-Dov · Public domain

それでも、できると最初にやって見せた人が要った。辞書を作り、言葉を作り、家庭で実際に話してみせた人が。バルフォア宣言、そしてイスラエルの建国を経て、ヘブライ語はいま、数百万人が日々の暮らしで話す言葉になっている。書き言葉だけになった古い言語が、話し言葉として母語の話し手を取り戻した例は、ほかにほとんどない。

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