范縝『神滅論』
概要
「形は神の質、神は形の用。刃と鋭さのように、刃がなければ鋭さはない」。仏教の輪廻を、皇帝と60人の僧と貴族が反論する中で退けなかった。「私は本を売って官を買わない」。梁の武帝が仏教を国教にする直前の、最後の反対。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
范縝AD450年頃–AD510年頃 · 著者本文
5世紀から6世紀の中国の南朝では、仏教が貴族の間で大きな力を持っていた。都の建康(いまの南京)には寺が立ち並び、皇族や貴族は僧を招いて経を講じさせ、財を寄せた。仏教の教えの中心の一つは、人の死後も心は滅びず、生前の行いの報いを受けて別の生へ生まれ変わる、という輪廻と因果応報である。中国にもとからあった考えとは大きく違うこの教えをめぐって、心(神)は体(形)が滅んだあとも残るのか、という論争が何度も繰り返された。その中で、最もはっきりと「残らない」と言い切ったのが、范縝の『神滅論』である。
范縝は南陽の出身で、早くに父を亡くし、貧しく育った。若いころ、名高い学者の劉瓛のもとで学んだが、身なりは粗末で、草履に布の服のまま、車にも乗らず歩いて通い、豊かな家の学友たちの中で少しも引け目を見せなかったという。南斉の時代、彼は皇族の竟陵王蕭子良のもとに出入りした。蕭子良は熱心な仏教の信者で、屋敷に僧や文人を集めて仏教を盛り立てていた。その集まりには、のちに梁を建てる蕭衍(梁の武帝)もいた。
あるとき蕭子良が范縝に尋ねた。君は因果を信じないというが、それなら、なぜ世に富貴な者と貧しく卑しい者がいるのか。范縝は答えた。人の生は木に咲く花のようなもので、同じ枝に咲き、同じ風に吹かれて散っても、ある花は簾をかすめて座敷の敷物の上に落ち、ある花は垣根を越えて便所に落ちる。殿下は敷物に落ちた花、私は便所に落ちた花です。貴い賤しいは偶然の違いで、因果などどこにありましょうか。正史の『梁書』の范縝の伝が伝える話である。
范縝が書いた『神滅論』の主張は、短く鋭い。心はすなわち体であり、体はすなわち心である。体があれば心があり、体が滅びれば心も滅びる。そして彼は、体を「質」(本体)、心をその「用」(働き)と言い表し、刃物のたとえを持ち出した。心と体の関係は、刃の鋭さと刃の関係のようなものだ。鋭さは刃そのものではなく、刃は鋭さそのものではない。しかし鋭さを離れて刃は無く、刃を離れて鋭さは無い。刃が無くなって鋭さだけが残るという話は聞いたことがない。体が亡んで心が残るなどということが、どうしてあろうか。
この論の背景には、それより百年ほど前に、名僧の慧遠が唱えた説があった。慧遠は、体が尽きても心は滅びないとし、火が薪から薪へと燃え移っていくように、心は次の体へと移っていくと説いた。范縝の刃のたとえは、この薪と火のたとえに真っ向から答えたものと見られている。范縝はさらに、仏教が政治を損ない、人々が財を尽くして僧に寄せ、家を傾けてまで寺に貢ぎながら、親族の困窮は顧みない、と社会の面からも批判した。人々がそれぞれの仕事に励み、上は君を、下は家族を養う世こそ望ましい、というのが彼の結論だった。
蕭子良は僧たちを集めて反論させたが、范縝は一歩も引かなかった。蕭子良の側近の王融は、君ほどの才があれば中書郎の位などすぐに手に入るのに、なぜわざわざこんな論を唱えて道を閉ざすのか、と説いた。范縝は笑って答えた。私が論を売って官を買うつもりなら、とうに宰相の位にも届いている。中書郎どころではない。
502年、蕭衍が梁を建てて武帝となる。武帝はやがて仏教に深く帰依し、自ら寺に身を捨てるほどの皇帝になる(梁の武帝の捨身)。范縝は一時、政争に連座して南の広州に流されたが、のちに都に呼び戻された。507年ごろ、『神滅論』が改めて問題になると、武帝は自ら范縝への反論の詔を書き、高僧の法雲がそれを貴族や高官に示して意見を求めた。六十人を超える人々が、こぞって神は滅びないとする文を寄せた。その中の一人の曹思文は二度にわたって論を挑み、范縝は答えた。曹思文はのちに、自分の力では范縝を言い負かせなかったと認めている。范縝は罰せられることなく、国の学校の博士の職に就き、のちに世を去った。
『梁書』は彼を、性格はまっすぐで、遠慮のない議論を好み、仲間たちから煙たがられた、と記す。彼のあと、南朝の仏教はますます栄え、武帝の時代は中国の仏教の一つの頂点となるが、その治世は侯景の乱で無残に終わる。20世紀の中国では、范縝は唯物論の先駆けとして高く評価された。体が滅べば心も滅ぶ、という主張は、宗教と国家、心と体をめぐる議論の中で、刃と鋭さのたとえとともに、いまも読み継がれている。