プロティノス
概要
エジプトで学び、ペルシアの哲学を知ろうと遠征軍に加わり、ローマで教えた。肉体を恥じて誕生日を祝わず、肖像を残させなかった。
所属
ローマ関わったできごと(1)
プロティノスの新プラトン主義AD253年(書きはじめる) · 教えた本文
プロティノスの生涯について分かることは、ほとんどすべて、弟子のポルフュリオスが師の死後30年ほどして書いた『プロティノスの生涯』に由来する。その書き出しは印象的である。プロティノスは、肉体の中にいることを恥じているように見えた。だから自分の家柄も、両親も、生まれた土地も、決して語ろうとしなかった、と。

それでも、死んだときの年齢から、生まれたのは204年か205年ごろと計算できる。生まれた地はエジプトとされ、後の伝承は上エジプトのリュコポリスの名を挙げるが、確かではない。ギリシア語で考え、ギリシア語で書いた人だった。誕生日を祝うことも無かったが、プラトンとソクラテスの誕生日とされる日には、弟子たちを招いて祝いの席を設けたという。
28歳のとき、哲学に心を引かれ、エジプト第一の学問の都アレクサンドリアで評判の教師たちの講義を聞いて回った。だが、どれにも満足できず、沈み込んでいた。友人が、アンモニオスという人のところへ連れて行った。その講義を聞いたプロティノスは、これこそ私が探していた人だ、と友人に言ったと伝えられる。アンモニオスは自らは何も書き残さなかった謎の多い哲学者で、プロティノスはその下で11年学んだ。

39歳のとき、ペルシア人やインド人の知恵を直接学びたいと考え、ローマ皇帝ゴルディアヌス3世がペルシアのシャープール1世に向けて起こした遠征の軍に加わった。だが244年、遠征の途中で若い皇帝は陣中で死んだ。プロティノスは命からがらシリアのアンティオキアへ逃れ、40歳のとき、ローマへやって来た。
ローマで、彼は26年にわたって教えた。講義は誰にでも開かれていて、哲学者だけでなく、医師、詩人、元老院の議員、そして女性たちも集まった。元老院議員の一人ロガティアヌスは、講義を聞くうちに財産を捨て、奴隷を解放し、公職も辞して、一日おきにしか食事をしない暮らしに入ったという。皇帝ガリエヌスとその妃もプロティノスに敬意を払い、プロティノスは、南イタリアのカンパニアにある廃れた町を再建して、プラトンの法に従って暮らす哲学者の町を作りたいと願い出た。だがこの計画は、宮廷の中の反対で実らなかった。

プロティノスは浮世離れした哲学者というだけではなかった。死を前にした貴族たちが、自分の子どもたちを、男の子も女の子も財産ごと彼に託した。彼はその子らを家に住まわせ、財産の管理をし、帳簿にも目を通した。子どもたちが哲学者にならないとしても、財産と収入は無傷で残しておかねばならない、と言っていたという。人と人との争いの仲裁も頼まれ、26年の間、ローマで一人も敵を作らなかった、とポルフュリオスは書いている。
肖像画を残すことは、かたくなに拒んだ。画家に座ってほしいと頼まれると、自然が私にまとわせたこの影の像だけでは足りずに、その影のさらに影を、見るに値するものとして後に残せというのか、と答えた。そこで弟子の一人が、腕の良い画家を講義に通わせ、記憶に焼きつけた顔を後から描かせたという。
ローマに来てから10年ほどは、何も書かなかった。師の教えを公にしないという、同門の弟子たちとの約束があったためとされる。250年代の半ば、50歳近くになって、弟子たちにうながされて書き始めた。書くときは、頭の中ですでに考えを組み立て終えているかのように、人と話しながらでも途切れずに書き続けた。目が弱かったため、書いたものを読み返すことは一度もなく、字は整っておらず、綴りも間違えていたという。
晩年に弟子入りしたポルフュリオスが、残された54の論文を内容ごとに9編ずつ6つの巻にまとめた。ギリシア語の「9」にちなんで、この著作集は『エンネアデス』と呼ばれる(プロティノスの新プラトン主義)。
その思想の中心にあるのは、「一者」と呼ばれるものである。万物の根源である一者は、あらゆるものを超えていて、言葉で捉えることはできない。そこから、泉から水があふれ出るように、まず知性(ヌース)が生まれ、知性から魂が生まれ、魂が物質の世界を形づくる。人間の魂は、もとはこの上なる世界に属しているが、肉体に下りてきている。哲学とは、魂がその源へ立ち返る道だった。プロティノス自身は、一者との合一を生涯に何度か経験したといわれ、ポルフュリオスはそばにいた6年の間に4度あったと書いている。
プラトンの哲学を土台にしたこの考え方は、のちに新プラトン主義と呼ばれ、古代の終わりの思想を大きく方向づけた。キリスト教の教父アウグスティヌスは、若いころラテン語に訳された「プラトン派の書物」を読んで、精神的な存在を考える手がかりを得たと『告白』に書いている。その書物の中心はプロティノスの著作だったとみられている。アレクサンドリアのヒュパティアも、この流れの中で教えた哲学者だった。著作の一部はアラビア語に訳され、アリストテレスの作と誤って伝えられて、イスラームの哲学者たちにも影響を与えた。15世紀のフィレンツェでは、フィチーノがその全著作をラテン語に訳している。
晩年のプロティノスは重い病に苦しんだ。声がかすれ、目もよく見えなくなり、手足にはただれができた。弟子たちは近づかなくなり、彼はローマを離れて、カンパニアにある亡き友人の地所に移った。270年、66歳で死んだ。最期を看取った医師の弟子エウストキオスに、彼は、私たちの内にある神的なものを、万有の内にある神的なものへと帰そうとしているのだ、と言い残したとポルフュリオスは伝えている。