できごと

ディオゲネスとアレクサンドロス

Diogenes and Alexander
BC336年
重要度 3
ディオゲネスとアレクサンドロスに関わる図版:Alexander visits Diogenes in Corinth -Diogenes asks him to stand out of his sun (1696)
Alexander visits Diogenes in Corinth -Diogenes asks him to stand out of his sun (1696) Wikimedia Commons Public domain

概要

ギリシアの総司令官になった若い王が、樽に住む哲学者を訪ねた。「何か望みは」「日陰になるからどいてくれ」。王は「私がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたい」と言った。作り話かもしれないが、二人はその年に同じ街にいた。

場所

コリントス
37.91°N 22.88°E · ギリシア・ペロポネソス地方

本文

紀元前336年の夏、マケドニアの王フィリッポス2世(フィリッポス2世)が、娘の婚礼の祝いの場で護衛の一人に刺し殺された(フィリッポス2世暗殺)。王位を継いだのは、20歳の息子アレクサンドロスだった。フィリッポスは2年前のカイロネイアの戦いでアテナイとテーバイを破り、ギリシアの諸都市をコリントスに集めて同盟を結ばせ、その盟主としてペルシアへの遠征を準備していた。王の死を知ったギリシアの都市には、若い王を見くびって背こうとする動きが出た。アレクサンドロスはすぐに軍を率いて南へ下り、テッサリアを従え、コリントスに諸都市の代表を集めた。そこで彼は、父と同じペルシア遠征の総司令官に選ばれた。

プルタルコス(プルタルコス)の『アレクサンドロス伝』によれば、このとき多くの政治家や哲学者がコリントスに集まり、新しい総司令官に祝いを述べに来た。だが、ちょうどコリントスに住んでいた哲学者ディオゲネスは、まるで気にかけず、町の郊外のクラネイオンと呼ばれる糸杉の森の体育場で過ごしていた。そこでアレクサンドロスのほうから、彼を訪ねていった。

アレクサンドロスとディオゲネス(ロヴィス・コリント画、1894年)
アレクサンドロスとディオゲネス(ロヴィス・コリント画、1894年)Wikimedia Commons Lovis Corinth · Public domain

ディオゲネスは日なたで寝そべっていた。大勢の人がやって来るのを見て、彼は少し身を起こし、アレクサンドロスを見た。王は挨拶をし、何か望みはないかと尋ねた。ディオゲネスは答えた。少しばかり日なたからどいてくれ、と。王の影が日差しを遮っていたのである。従っていた人々は、この無礼な男を笑いものにしたが、アレクサンドロスは帰り道でこう言ったという。私がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたいものだ。

同じ話は、3世紀ごろのディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』にも出てくる。そちらには、この言葉にディオゲネスが、私もディオゲネスでなかったら、やはりディオゲネスでありたい、と返したという版まで伝わる。出会いが本当にあったのかは分からない。後の時代に、権力と無欲の対比を見せるために作られた話だと考える学者も多い。ただ、アレクサンドロスがその年にコリントスに来たこと、ディオゲネスがそのころコリントスに住んでいたらしいことは、ありえないことではない。総司令官に選ばれた年を翌年の紀元前335年とする説もある。

アレクサンドロスとディオゲネス(ルイ・レーブ画のリトグラフ、『センチュリー・マガジン』1898年)
アレクサンドロスとディオゲネス(ルイ・レーブ画のリトグラフ、『センチュリー・マガジン』1898年)Wikimedia Commons Louis Loeb · Public domain

ディオゲネスは、黒海の南岸のギリシア人の町シノペに生まれた。父は両替商か造幣の役人で、貨幣に細工をした罪で、親子ともシノペを追われたと伝えられる。彼は後年、自分は貨幣を作り替えた、と言ってはばからなかった。デルポイの神託に「通貨を作り替えよ」と告げられたという話もある。ギリシア語の「通貨(ノミスマ)」は「慣わし(ノモス)」と通じる。世の中の慣わしや価値をひっくり返すことが、彼の生き方になった。

アテナイに出た彼は、ソクラテス(ソクラテス)の弟子だったアンティステネスの教えに学んだとされ、徹底して質素に暮らした。家を持たず、神殿の脇に置かれた大きな素焼きの甕に寝泊まりした。日本で「樽」と訳されるのはこの甕のことである。持ち物は外套と頭陀袋と杖だけで、子どもが両手で水をすくって飲むのを見て、自分の椀まで捨てたという。人前で食べ、人前で何でもして恥じず、人々は彼を「犬」と呼んだ。彼はその呼び名を喜んで受け入れ、ここから彼の流れをくむ人々はキュニコス派、つまり犬の派と呼ばれるようになった。

アレクサンドロスとディオゲネスの会見(ピエール・ピュジェ画、1680年、ルーヴル美術館)
アレクサンドロスとディオゲネスの会見(ピエール・ピュジェ画、1680年、ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Public domain

逸話は数多い。昼間にランプをともして町を歩き回り、何をしているのかと聞かれると、人間を探しているのだと答えた。プラトンが人間を「羽のない二本足の動物」と定義すると、ディオゲネスは鶏の羽をむしってアカデメイア(プラトンのアカデメイア)に持ち込み、これがプラトンの人間だと言った。そのため定義に「平たい爪を持つ」が付け加えられたという。どこの者かと問われると、自分は「世界の市民(コスモポリテース)」だと答えた。この言葉を使った最初の人とされる。海賊に捕らえられて奴隷として売られたとき、何ができるかと聞かれ、人を支配することだと答え、支配者を買いたい者はいないかと呼ばわらせた。コリントスの人クセニアデスが彼を買い、息子たちの教育を任せたと伝えられる。どこまでが事実かは分からないが、こうした話が、彼を古代で最も愛された変わり者にした。

伝承によれば、ディオゲネスは紀元前323年、コリントスで90歳ほどで亡くなった。その年、アレクサンドロスもバビロンで32歳で死んだ(アレクサンドロスの死)。二人は同じ日に死んだという言い伝えまであるが、これは後の時代の作り話とみられている。ディオゲネスは、死んだら体を埋めずに城壁の外へ投げ捨て、獣の餌にしてくれと言い残したという。だがコリントスの人々は、町の門の近くに彼の墓を建て、その上に大理石の犬の像を据えた。世界の半分を征服した王と、何も持たないことを誇った哲学者の出会いの話は、その後二千年以上にわたって、絵や文学に繰り返し描かれてきた。

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