アズハル学院の創設
概要
現存する最古級の大学。1000年以上、イスラム世界の学問の中心であり続ける。
場所
30.04°N 31.24°E · エジプト
本文
10世紀のイスラーム世界は、一つではなかった。バグダードにはスンナ派のアッバース朝のカリフがいたが、その力はすでに衰え、北アフリカではシーア派の一派であるイスマーイール派がファーティマ朝の成立で自らカリフを名乗っていた。ファーティマ朝は、預言者ムハンマドの娘ファーティマの血を引く者こそがイスラーム共同体を導くべきだと考え、やがてはバグダードのカリフに取って代わることを目指していた。
969年、ファーティマ朝の将軍ジャウハルはエジプトを征服し、ナイル川のほとりの古い町フスタートの北に、新しい都を築いた。これがカイロ(勝利の町)である。翌970年、ジャウハルは都の中心に大モスクの建設を始め、972年に最初の礼拝が行われた。アズハルの名は、ファーティマの呼び名の一つ「ザフラー(輝ける者)」に由来するという説がよく知られている。

モスクは礼拝の場であると同時に、学ぶ場でもあった。975年には、ファーティマ朝の法学者がここでイスマーイール派の法を講じたと伝えられる。988年ごろには宰相ヤアクーブ・イブン・キッリスがカリフに願い出て、30人あまりの学者に住まいと俸給を与え、決まった講義を行わせた。アズハルが学問の府として形をとり始めるのはこの頃からである。ここで教えられたのは、何よりもまず王朝の教義だった。
1171年、サラディンがファーティマ朝を終わらせ、エジプトをスンナ派のアイユーブ朝のもとに置いた。シーア派の拠点だったアズハルは冷遇され、金曜の集団礼拝も止められて、しばらく学問の場としての勢いを失う。息を吹き返したのは、13世紀後半にマムルーク朝のスルタン、バイバルスが金曜礼拝を復活させてからである。モンゴルがバグダードを落とし、東方の学問の中心が失われると、学者たちはカイロに逃れてきた。アズハルはそうしてスンナ派の学問の中心になった。建てた側の宗派は残らず、建物と学ぶ営みだけが続いたことになる。

アズハルには入学試験も学位もなかった。学生は柱のもとに座る教師を選んでその講義を聴き、一つの書物を学び終えると、教師からその本を教えてよいという許しを受けた。学費は取られず、寄進された財産(ワクフ)からの収入で、学生には寝る場所とパンが与えられた。宿舎は出身地ごとに分かれ、エジプトの各地のほか、シリア、マグリブ、トルコ、さらにはエチオピアや、サハラの南から来る学生のための宿舎もあったと伝えられる。メッカへの巡礼の道とつながったこの学院には、イスラーム世界の端々から人が集まった。
近代に入っても、アズハルは政治の渦の中にあった。1798年のナポレオンのエジプト遠征のとき、カイロで起きた反乱はアズハルの周りから始まり、フランス軍はモスクの中にまで兵を入れた。19世紀の終わりには、思想家ムハンマド・アブドゥフが、近代の学問を取り入れて教育を改めることを訴えた。1961年にはガマール・アブドゥル=ナセルの政府が法律を定め、医学や工学の学部と女子の学部を加えて、総合大学に作り変えた。同時に、学院の長は政府が任命する形になり、国家との結びつきは強まった。

アズハルは現存する教育機関として世界最古級とされ、ヨーロッパ最古の大学とされるボローニャ大学の創立より1世紀あまり早い。ただし、学位を出す近代的な意味での「大学」になったのは20世紀のことで、モロッコのフェスにあるカラウィーイーン・モスクの学院のほうが古いとする見方もある。何をもって大学と呼ぶかで、順位は変わる。
いまアズハルには、アジアやアフリカをはじめ、世界の多くの国から学生が来ている。その長であるシャイフ・アル=アズハルが示すイスラーム法についての見解は、エジプトの外でも、スンナ派の多くのムスリムに重く受け止められている。千年以上、同じ場所で、教え、学ぶことを続けてきた機関である。