できごと

ソル・フアナ「フィロテア修道女への返答」

Sor Juana's Reply to Sister Filotea
AD1691年
重要度 3
スペイン帝国ポルトガル帝国ペルー副王領アマゾンの狩猟採集民ヌエバ・エスパーニャ副王領大英帝国ObiwaShoshoniUteDutch BrazilMi'kma'kiNorthern PaiuteIllinnois𐓏𐒰𐓓𐒰𐓓𐒷 𐒼𐓂𐓊𐒻 𐓆𐒻𐒿𐒷 𐓀𐒰^𐓓𐒰^(Osage)コマンチアラパホークロウMescaleroShawneeFloridaSanteeKiowaTetonBlackfootErieカドーイロコイ連邦Southern PaiutePawneeWichitaYankontaiPotawatomiCuba (Spain)YanktonIowaQuapawTonkawaシャイアンHispaniola (Spain)CherokeeAtakapaネズパースLipanMissouriEssequiboAD1691年テノチティトラン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1691年の版図を描いています(45勢力)。

概要

女性が世俗の学問に耽るのは本分から外れる、という司教の書簡に反論した。禁じる根拠は聖書に無い、台所でも哲学はできる、と。その後、筆を折る。

場所

テノチティトラン
19.43°N -99.13°E · メキシコ・メキシコシティ

関わった人(1)

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスAD1648年11月12日–AD1695年4月17日 · 著者

本文

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスは、17世紀半ばのヌエバ・エスパーニャ(スペイン領のメキシコ)に生まれた。生年は1648年とも1651年とも言われる。メキシコ市の南東、火山のふもとの村で、スペイン系の母と、正式に結婚していないバスク出身の父の間の娘だった。テノチティトランの陥落から130年近くがたち、アステカの都の上に建てられたメキシコ市は、副王の宮廷と大聖堂と大学を持つ、新大陸で最大級の都市になっていた。

フアナは3歳のとき、姉について学校へ行き、母に内緒で読み書きを覚えてしまった。チーズを食べると頭が鈍くなると聞いてチーズを口にせず、決めた時までに覚えられなければ罰として自分の髪を切った。髪のように飾りの多い頭の中が空っぽでは困るから、と後に書いている。大学で学びたいので男の服を着せてくれと母にせがんだが、女性が大学に入る道はなかった。祖父の書庫の本を読み尽くし、十代の半ばで副王の宮廷に女官として迎えられる。副王は彼女の学識を試そうと40人ほどの学者を集めて質問させ、少女は軍艦が小舟を退けるように答えた、と伝記は記す。

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)
ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)Wikimedia Commons Miguel Cabrera · Public domain

結婚する気のなかったフアナは、20歳前後で修道院に入った。厳しい修道会で体を壊し、のちにメキシコ市のサン・ヘロニモ修道院に移る。修道院を選んだのは、本を読み、書く時間を持てる唯一の生き方だったからだと、自分で書いている。修道院の部屋には書物と楽器と観測の道具が集まり、副王夫妻や学者たちが面会に訪れた。詩と戯曲と宗教劇と歌を書き、女に向かって勝手な言い分を並べる男たちを皮肉った詩は、今もよく暗唱される。その作品はスペインでも出版され、「メキシコの不死鳥」「第十のミューズ」と呼ばれた。

転機は1690年に来た。フアナは、ポルトガルの名高いイエズス会士ビエイラの説教を、神学の論理で批判する文章を書いた。プエブラの司教フェルナンデス・デ・サンタ・クルスは、それを本人に断らずに印刷して広め、その巻頭に、フィロテアという修道女の名を使った手紙を添えた。あなたの才能は見事だが、世俗の学問に心を奪われず、もっと聖なる書物に向かうべきだ、と諭す内容である。親しげな言葉の裏に、女性が神学の議論に口を出すことへの戒めがあった。

メキシコシティ、サン・ヘロニモ修道院
メキシコシティ、サン・ヘロニモ修道院Wikimedia Commons Eneas de Troya · CC BY 2.0

1691年3月、フアナは返事を書いた。「フィロテア修道女への返答」である。まず彼女は、自分は好きこのんで学問に向かったのではない、物心ついたときから知りたいという衝動を抑えられなかったのだ、と語る。修道院長に本を読むことを禁じられた3か月の間も、目に入るものすべてを観察した。寄宿舎の廊下の線の傾き、子どもが回すこまの描く輪。台所で卵が油で固まり、砂糖のシロップでは崩れることに目をとめ、「アリストテレスが料理をしていたら、もっと多くのことを書いただろう」と書いた。

そのうえで彼女は、女性が学ぶことを禁じる根拠は聖書にない、と論じる。聖書や古代の歴史から学識ある女性たちの名を次々に挙げ、教会の中で女は黙っていよという使徒パウロの言葉は、公の場で説教することを指すのであって、ひとりで学ぶことや書くことを禁じたものではない、と読み解いた。さらに、少女たちに読み書きを教えるのが男性の教師であることの危うさを指摘し、学問のある年配の女性が教えるべきだと提案している。謙遜の決まり文句を重ねながら、一歩も引かない文章である。

ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)
ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの肖像(ミゲル・カブレラ画)Wikimedia Commons Miguel Cabrera · Public domain

しかしこの返答のあと、フアナは筆を折った。1693年ごろから書くことをやめ、蔵書と楽器と観測の道具を売り払い、その代金を貧しい人びとへの施しにあてた。修道誓願を新たにする文書に、自分の血で「私、すべての中で最も悪い女」と署名したと伝えられる。1695年4月、修道院で疫病が広がり、病んだ姉妹たちを看病していたフアナもかかって死んだ。40代だった。

彼女がなぜ筆を折ったのかは、今も議論が分かれる。女性嫌いで知られたメキシコの大司教ら教会の圧力に屈したのか、それとも本人の信仰の深まりによる選択だったのか。メキシコの詩人オクタビオ・パスは大部の評伝でこの問いに取り組み、彼女を閉じ込めた時代と信仰の「罠」を描いた。いずれにしても、「返答」は、アメリカ大陸で女性が学ぶ権利を論じた最初の文章の一つとして読み継がれている。ヨーロッパでウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を書き、女子にも理性を育てる教育を、と訴えるのは、それから100年後のことである(物語「女性の権利」)。

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