人物

王弼

Wang Bi
AD226年 – AD249年(享年23・推定)
魏重要度 4

概要

『老子注』『周易注』『論語釈疑』。「無」。「言は意を尽くさず。意を得て言を忘れる」。何晏が「後生畏るべし」。24歳で死んだ。曹爽が高平陵で倒れた年。彼の『老子』と『周易』の注は、それから1800年、教科書。24歳で。

所属

魏

関わったできごと(2)

正始の音(玄学の始まり)AD240年 · 老子注竹林の七賢AD260年頃 · その前に正始の音

本文

226年、山陽郡高平、いまの山東省の西部の名門に生まれた。字は輔嗣。曹操の子の曹丕が魏の皇帝となって6年後、天下は魏・呉・蜀の三国に分かれていた。

王弼の肖像
王弼の肖像Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

家系は学問の名家だった。祖父の王凱は、荊州を治めた劉表の娘婿で、同じ一族には建安の文学を代表する詩人の王粲がいた。後漢末の大学者蔡邕は、若い王粲の才を愛して、自分の蔵書を車に何台分も贈った。王粲の息子たちが事件に連座して処刑されると、その蔵書は王弼の父のもとに移った。少年王弼は、当代随一の書庫の中で育ったことになる。

10代のうちから、彼は『老子』を好み、弁舌に長けた。曹操の養子で、魏の朝廷で人事を握っていた何晏は、当時の議論の第一人者だった。何晏は王弼に会うと、その議論に驚嘆して言った。孔子は後生畏るべしと言ったが、この人のような者となら、天と人の関わりを論じ合うことができる。何晏は自分でも『老子』の注を書いていたが、王弼の注を見て、とてもかなわないと思い、自分のものを論文に書き改めたと伝えられる。

竹林の七賢に関わる図版:竹林七聖図-Seven Sages of the Bamboo Grove MET DP361155
竹林の七賢Wikimedia Commons Sesson Shukei · CC0

このころの魏の都洛陽では、清談と呼ばれる議論が流行していた(正始の音(玄学の始まり))。漢の時代の儒教は、経書の字句の細かな解釈と、天と人の感応、予言の書に覆われていた。その権威が崩れた後、知識人たちは『老子』『荘子』『周易』を拠りどころに、存在とは何か、言葉は真理を表せるか、といった抽象的な問題を論じ合った。この学問を玄学という。何晏と王弼は、その中心にいた。

王弼の考えの核にあるのは「無」である。天地のあらゆるものは、形も名も持つ「有」である。だがそれらを生み、成り立たせている根本は、形も名も持たない「無」だ。無は、それ自体では言葉で語ることができない。この考えは老子の思想(『老子』の成立)を、新しい論理で読み直したものだった。

『老子』の成立に関わる図版:Mawangdui LaoTsu Ms2
『老子』の成立Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ある人が彼に尋ねた。無こそが万物の根本であるなら、なぜ聖人の孔子はそれについて何も語らず、老子は無を説いてやまなかったのか。王弼は答えた。聖人は無を体得している。そして無は言葉で教えることができない。だから聖人は、語ることのできる有について語ったのだ。老子はまだ有の立場にいたので、自分に足りない無についてしきりに語ったのだ。孔子を老子より上に置きながら、その孔子の本質を老子の無で説明する。儒教と道家の思想を一つにつなぐ、鮮やかな答えだった。

もう一つの仕事が、『周易』の読み方を変えたことである。『周易』は、陰と陽の組み合わせでできた64の卦と、それに付けられた言葉からなる占いの書で、儒教の経典の一つだった。漢代の学者たちは、卦の形を数や暦、五行に結びつけ、複雑な計算で意味を引き出す象数の学を発達させていた。王弼はこれをばっさりと捨て、卦と言葉が伝えようとしている意味そのもの、義理を読み取るべきだと説いた。

その方法を、彼は『周易略例』でこう書いた。言葉は形を明らかにするためにあり、形を得たら言葉は忘れてよい。形は意味を保つためにあり、意味を得たら形は忘れてよい。これは荘子(『荘子』)にある、魚を捕ったら筌を忘れ、兎を捕ったら罠を忘れる、という譬えを踏まえたものである。言葉や形にとらわれず、その奥にある意味をつかめ、と。

20歳前後のうちに、彼は『老子注』『周易注』『周易略例』『論語釈疑』を書き上げた。しかし、学問の才に比べ、世渡りは得意ではなかった。何晏の推薦で官に就き、尚書郎となったが、望んだ地位ではなかった。実権を握っていた大将軍の曹爽に初めて会ったとき、王弼は人払いを求めて、長い時間をかけて道を論じた。曹爽はただ笑っていたという。彼は人の欠点を遠慮なく笑い、才に任せて人を見下すところがあったので、多くの人に嫌われた、と伝記は書く。

249年正月、司馬懿がクーデターを起こし、皇帝の墓参りで都を離れていた曹爽の一派を倒した(高平陵の変)。曹爽も何晏も一族ごと処刑された(司馬懿)。王弼はこの事件で職を失った。そしてその年の秋、流行病にかかって死んだ。数え24歳だった。子はいなかった。司馬懿の子の司馬師は、彼の死を聞いて何日も嘆いたと伝えられる。

高平陵の変に関わる図版:司马懿诈病赚曹爽
高平陵の変Wikimedia Commons 冯墨农 · Public domain

短い生涯に残した注釈は、その後の中国の思想を長く方向づけた。『老子注』は、現存する最も古い『老子』の注の一つで、後世の『老子』の本文は、千年以上にわたり王弼の注とともに読まれてきた。『周易注』は、唐の時代に国家が定めた経書の公式の解釈『五経正義』に採用され、科挙の基準となった。のちの宋の時代の新しい儒学も、彼が開いた、意味を読み取るという方法の上に立っている。わずか24年の生涯で書いたものが、1000年を超えて経典の読み方を決めたのである。

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