ラームカムヘーン
概要
タイ文字を作ったと碑文が伝える。その碑文が後世の偽作ではないかという説が出て、いまも議論が続いている。
関わったできごと(1)
スコータイ朝とタイ文字AD1283年 · 碑文に名が刻まれる本文
スコータイ朝の三代目になる。13世紀の半ば、タイ人の首長シーイントラーティットが、アンコールの勢力をチャオプラヤー川の上流から退けてスコータイに国を開いた。その三男がラームカムヘーンである。生まれは1237年頃とされるが、幅がある。それまでこの一帯は、アンコールの隆盛の時代のクメールの王国の影響の下にあった。

名前の由来は、碑文に書かれた若いころの武勲にある。19歳のとき、隣国の首長が攻めてきて父の軍が崩れたが、彼だけが象を進めて敵の首長の象と渡り合い、これを破った。父はそれを讃えて「勇猛なるラーマ」の名を与えた、という。兄のバーンムアンが王位を継いだ後、1279年頃にラームカムヘーンが跡を襲った。
碑文が、この王を有名にしている。ラームカムヘーン王碑文、あるいは第一碑文と呼ばれる四角い石柱で、王がタイ文字を作り、この碑に刻んだ、と書かれている(スコータイ朝とタイ文字)。文字を作った年は1283年にあたる。

内容が、統治の理想を語る。「水に魚あり、田に米あり」。市場での取引に税をかけない。親が死ねば、その財産はそのまま子に渡す。訴えたい者は王宮の門に吊るした鐘を鳴らせば、王が自ら出てきて聞く。王は月に何度か、石の玉座に僧を招いて人々に教えを説かせた。民を慈しむ父のような王の姿が、一人称と三人称を交えて描かれる。
碑文は、王の勢力が東はメコン川の向こう、南はマレー半島の付け根、西はペグーにまで及んだとも書く。これは影響が及んだ範囲を大きく書いたものと見られ、直接治めた国はもっと小さかったはずだ。南のナコーンシータマラートから上座仏教の高僧を招いたことは、のちのタイ仏教の土台になった。元の史書には、この頃スコータイ(暹)から使節が来たことが記録されていて、王は北で勢いを増すモンゴル帝国の拡大と事を構えず、使いを送って付き合った。
北の隣国との付き合いについては、年代記に伝承が残る。ラーンナーのマンラーイ王が1296年にチエンマイを築くとき、ラームカムヘーンとパヤオのガムムアン王が招かれ、三人で都の場所を選んだ、という。三人の王が並ぶ像はいまもチエンマイの旧市街にあるが、これは後の年代記の話で、そのまま史実とは言えない。スコータイの陶磁器の技術は、王が中国から連れ帰った陶工が伝えたという話もあるが、これも裏づけはない。
死んだ年は1298年頃とされるが、もっと後まで生きていたとする説もある。息子たちの代にスコータイの勢いは衰え、14世紀半ばに南でアユタヤ朝の成立を迎えると、やがてその支配下に入った。

碑は1833年、のちのラーマ4世モンクットが僧だったころに、スコータイの遺跡で見つけたとされる。タイの国民史の出発点として扱われ、文字の創始と、王と民が近い理想の国の姿は、教科書で教えられてきた。
1980年代、後世の偽作ではないかという説が出された。オーストラリアの歴史家マイケル・ヴィッカリーが疑問を投げかけ、タイの美術史家ピリヤ・クライリクシュは、モンクット自身か、その周辺で作られたのではないかと論じた。文字の形と語法に、13世紀の他の碑文と比べて新しすぎる点があること、内容が19世紀の改革の理想に似すぎていることが、根拠に挙げられた。

これに対しては、言語学や碑文学の立場から多くの反論が出た。古い語彙や、後世の人が知りえない事柄が含まれていることが指摘されている。いまは真作とする見方が主流で、2003年にはユネスコの世界の記憶に登録された。それでも、一部が後から書き足されたのではないかという見方も残り、議論は完全には終わっていない。
タイでこの説を論じることには、政治的な緊張が伴う。碑文を偽作とすることは、国の始まりの物語と、それを見つけた王家の名誉に触れることになるからだ。一人の王の姿が、一本の石柱の真贋にかかっている。その石柱はいまバンコクの国立博物館にあり、ラームカムヘーンは、タイ文字の父として、いまも語り継がれている。