煙突の普及
概要
中世の家は、部屋の中央で火を焚き、煙は屋根の隙間から抜けた。すすで目を病み、天井は黒く、二階は作れない。12〜13世紀、壁に沿って炉を寄せ、煙道で外へ導く仕組みが広がった。結果は建築だけでなかった。煙のない部屋に天井を張れるから、家が二階建てになる。大広間で全員が一つの火を囲む必要がなくなり、部屋が分かれ、私室ができた。個人という感覚の物理的な条件の一つが、ここで整った。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
中世ヨーロッパの家の多くは、大きな一つの部屋でできていた。その真ん中で火が焚かれる。石を並べた炉か、土間の窪みである。煙は天井へ昇り、屋根に開けた煙出しの穴か、屋根のすき間から抜けていった。この暮らしには困ったことがいくつもあった。部屋はいつも煙たく、目と喉と肺を痛める。中世の人骨には、慢性の呼吸器の病の跡がしばしば見つかる。壁も梁も、すすで黒くなった。
もっと大きな制約は、天井を張れないことだった。煙を抜くには、屋根裏まで吹き抜けにしておかなければならない。だから二階が作れない。火が部屋の真ん中にあるので、部屋を仕切ることもできない。仕切れば煙がこもり、火の熱も届かなくなる。

その結果、中世の家は、大きな館でも小さな農家でも、一つの広間に全員が集まる作りになった。領主も家族も家来も召使いも、同じ広間で食事をし、夜には食卓を片付けて藁や毛布を敷き、同じ広間で眠った。犬もいれば、ときには家畜もいた。広間の奥に主人一家の小部屋を設けた館もあったが、それは例外だった。一人になれる場所は、ほとんど無かったのである。
これを変えたのが、炉を壁に寄せ、壁の中に縦の煙の通り道を作って上へ導く仕組み、つまり煙突だった。原理は単純である。熱い空気は軽いので上へ昇り、下から新しい空気を引き込む。管が高いほど、引きは強くなる。古代ローマの豪邸や浴場には、床下に熱い空気を通す暖房があったが、それは富裕な人々や公共の施設のもので、普通の家に煙突は無かった。
12世紀になると、ヨーロッパ北部の城や修道院に、壁に組み込んだ暖炉と煙道が現れる。イングランドのコニスブラ城の天守(1180年頃)は、その早い例として知られる。木造の家が密集する都市では火事が最大の恐怖であり、ヴェネツィアでは火の粉が屋根に落ちないよう、上の口が朝顔のように開いた独特の煙突が並ぶようになった。13世紀から14世紀にかけて、煙突は都市の家にも広がっていく(煙突のある暖炉)。農村の普通の家にまで行き渡るのは、さらに後のことだった。
イングランドでは、1570年ごろから1640年ごろにかけて、農村の家が大規模に建て替えられた。歴史家W・G・ホスキンズが1953年に「大改築」と名づけた現象で、その中心にあったのが煙突の取り付けだった。同時代の聖職者ウィリアム・ハリソンは1577年の著書『イングランドの記述』で、村の老人たちが自分の生きているうちに三つの大きな変化を見たと語っている、と書いた。第一に煙突が増えたこと(昔は村に二つか三つしかなかった)、第二に寝床が良くなったこと、第三に木の皿が錫の食器に変わったこと。ハリソンは皮肉まじりにこう付け加えている。老人たちは、煙が家に満ちていたころのほうが健康だった、煙が家の木を燻して長持ちさせ、人の頭も丈夫にした、と言っている、と。

煙突がもたらしたものは、建築だけではなかった。天井を張れるので、上に部屋を作れる。同じ土地の上に二倍の床ができ、家は二階建てになった。都市が上へ積み上がっていく条件の一つも、ここで整った。火が壁ぎわにあれば部屋を仕切れるし、部屋ごとに暖炉を作ることもできる。寝室が広間から分かれ、家族の私室が生まれた。
社会学者ノルベルト・エリアスは『文明化の過程』で、眠ることや体の始末のように、かつて人前で行われていたことが、しだいに人目から隠されるようになっていく過程を描いた。歴史家フィリップ・アリエスやジョルジュ・デュビーらは、私生活という領域そのものがいつどのように生まれたのかを問うた。煙突が個人主義を作ったわけではもちろんない。しかし、扉を閉めて一人になれる部屋の無い社会では、そうした感覚は育ちにくい。煙突は、その物理的な条件の一つを整えたのである。
煙突は国の財布にも目を付けられた。イングランドでは1662年、王政復古の政府が炉の数に応じて家ごとに税をかける「炉税」を始めた。役人が家の中まで入って炉を数えるので嫌われ、名誉革命の後の1689年に廃止された。代わりに1696年から課されたのが、外から数えられる窓の数に応じた税である。また、煙突が細く曲がりくねるようになると、すすを払うために小さな子どもを煙道に登らせる煙突掃除が広まった。窒息や火傷、すすによるがんに苦しむ子どもが多く、何度も規制の法が作られたが守られず、1875年の法律でようやく実質的に止められた。
燃料も変わった。石炭は煙とすすが多く、煙突なしでは家の中で燃やせない。16世紀のロンドンでは、周りの森が切り尽くされて薪が高くなり、北部のニューカッスルから船で運ばれる石炭が家庭に入ってきた。煙突があったから石炭が使え、石炭を燃やすから町が煙で覆われる。1661年、文筆家ジョン・イーヴリンは『フミフギウム』という小冊子でロンドンの煙の害を訴えた。この問題は長く解決されず、1952年のロンドン・スモッグでは数千人、のちの推計では1万人を超える人が死んだとされる。
開いた暖炉には、熱の大部分を煙突から逃がしてしまうという弱点もあった。火の前は熱いが、少し離れると寒い。18世紀にはその改良が試みられた。ベンジャミン・フランクリンは1740年代、部屋の中に置く鉄の箱型の暖炉を考えた(フランクリン・ストーブ)。1790年代には、ランフォード伯ことベンジャミン・トンプソンが、暖炉の奥を浅くし、側面を斜めにして熱を部屋へ照り返させ、煙突の喉を狭めて暖かい空気が逃げすぎないようにする設計を広めた。彼は貧しい人々のための安いスープを工夫した人物でもある(貧しい人のためのスープ)。
日本の家は別の道を歩んだ。囲炉裏の煙は屋根裏を抜けて茅葺きのすき間から出ていき、煙突は作られなかった。それには理由があった。煙が茅や梁を燻して虫や腐れを防ぎ、屋根を長持ちさせる。合掌造りの家では、囲炉裏の熱と煙が上の階の蚕室を温め、乾かす役目も果たした。日本では部屋全体を暖めるより、火鉢や炬燵で人を直接暖める工夫が発達した。日本の家に煙突のある暖房が広まるのは、20世紀に入ってからである。