できごと

アベラールとエロイーズ

Abelard and Héloïse
AD1117年頃
年に諸説あり重要度 4
北極圏の海獣狩猟民クマン=キプチャク連合フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民セルジューク朝ムラービト朝キエフ・ルーシファーティマ朝サーミ神聖ローマ帝国東ローマ帝国ヴォルガ・ブルガールマクリアノルウェールーム・セルジューク朝ポーランド王国ハンガリー王国スウェーデンブルガール可汗国アランIcelandic CommonwealthPrussiansEnglandケルト系の諸王国アルメニアLeónデンマークブルゴーニュジョージア王国スコットランドKarakalpaksポロツク公国エルサレム王国フランス王国Dutchy of BeneventoAD1117年頃ノートルダム
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1117年頃の版図を描いています(34勢力)。

概要

パリで最も人気の哲学教師が、参事会員の姪の家庭教師になり、子を作り、秘密に結婚した。叔父が人を雇って教師を去勢させた。彼は修道士に、彼女は修道女に。20年後の手紙。「妻より愛人と呼ばれたい」。二人はペール・ラシェーズに一緒にいる。

場所

ノートルダム
48.85°N 2.35°E · フランス・パリ

関わった人(2)

ピエール・アベラールAD1079年–AD1142年4月21日 · 去勢されたエロイーズAD1100年頃–AD1164年5月16日 · 手紙を書いた

本文

ピエール・アベラールは1079年、ブルターニュのナントの近く、ル・パレの騎士の家に長男として生まれた。家を継いで剣を取る道を弟たちに譲り、彼は論理学の議論を武器に選んだ。各地の教師のもとを渡り歩き、パリでは名高いシャンポーのギヨームに学んだが、師の説を公の場で論破して恨みを買った。ムランやコルベイユで自分の学校を開き、やがてパリのノートルダムの学校で教えるようになる。1110年代の半ば、彼はパリで最も人気のある教師で、ヨーロッパの各地から学生が集まった。のちにパリ大学の成立となる学びの場の、華やかな始まりの頃である。

ノートルダムの参事会員フュルベールには、エロイーズという姪がいた。年は10代の後半とされてきたが、もっと年上だったとする説もある。ラテン語の文章に優れ、女性ながら学識で名を知られていた。アベラールは後の自伝『我が災厄の記』で、自分は彼女を手に入れようと決め、そのためにフュルベールの家に下宿を申し出た、と書いている。フュルベールは喜んで、姪を教えてやってほしい、怠けたら打ってもかまわない、と頼んだ。

ピエール・アベラールの肖像
ピエール・アベラールの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

本は開かれていたが、交わされたのは愛の言葉だった、とアベラールは書く。彼は彼女のために恋の歌を作り、それは学生たちに口ずさまれて町に広まった。噂を知らなかったのは叔父だけだった。やがてエロイーズは身ごもり、アベラールは彼女をブルターニュの自分の妹の家へ逃がした。生まれた男の子は、天文の観測器具の名を取ってアストロラーブと名づけられた。

アベラールは、怒るフュルベールに償いとして結婚を申し出た。ただし、教師としての名声を守るため、秘密にするという条件だった。エロイーズは反対した。哲学者が赤ん坊の泣き声と家事に囲まれて学問ができるか、あなたの名声を自分のために損なってはならない、と。それでも二人はパリでひそかに結婚した。フュルベールは結婚を言いふらし、エロイーズはそれを否定して叔父に打たれた。アベラールは彼女をパリの郊外アルジャントゥイユの女子修道院に移し、修道女の衣をまとわせた。

"フュルベールに驚かされるアベラールとエロイーズ"/ ロマン派画家ジャン・ヴィニョーによる(1819年)
"フュルベールに驚かされるアベラールとエロイーズ"/ ロマン派画家ジャン・ヴィニョーによる(1819年)Wikimedia Commons Jean Vignaud · Public domain

フュルベールは、アベラールが姪を捨てて修道院に押し込めたと思った。1117年ごろのある夜、彼の雇った男たちが、買収した召使いの手引きでアベラールの寝室に押し入り、彼を去勢した。男たちのうち二人は捕らえられ、目をつぶされ、同じ罰を受けた。

恥辱のなかで、アベラールはサン・ドニの修道院で修道士になり、エロイーズにも修道女の誓いを立てさせた。彼女は神のためではなく、あなたの命令だから従ったのだ、と後に書いている。その後もアベラールの議論は敵を作り続け、1121年のソワソンの会議では、三位一体を論じた著作が異端とされ、自らの手で火に投じさせられた。彼はシャンパーニュの寂しい土地に庵を結び、「パラクレ(慰め主)」と名づけた。そこにも学生たちが慕って集まった。1129年、エロイーズと修道女たちがアルジャントゥイユの修道院を追われると、アベラールはパラクレを彼女たちに譲り、エロイーズは院長となった。

ピエール・アベラールの肖像
ピエール・アベラールの肖像Wikimedia Commons Antoni Oleszczyński · Public domain

1130年代のはじめ、アベラールが友人に宛てて書いた『我が災厄の記』を、エロイーズが読んだ。ここから二人の手紙のやりとりが始まる。妻という名のほうが聖なるものに見えるでしょうが、私には愛人という言葉のほうが、いえ、許されるなら情婦や娼婦という言葉のほうがずっと甘い、とエロイーズは書いた。あの喜びを悔いることはできない、ミサの最中にもあなたのことを思ってしまう、とも。アベラールは、神に心を向けよと諭し、修道院の規則を書き送った。これらの手紙が本当に二人の書いたものかは長く疑われてきたが、いまは本物と見る研究者が多い。

アベラールは教父たちの言葉の食い違いを並べた『然りと否』を著し、理性で信仰を問い直そうとした。それが、クレルヴォーの修道院長ベルナールの怒りを買った(ベルナールの属した修道会の始まりはシトー会の創設)。1141年ごろ、サンスの会議で彼の説は再び断罪された。ローマへ訴えに向かう途中、アベラールはクリュニーの修道院長ペトルス・ウェネラビリスに迎えられ(クリュニー修道院の創立)、1142年4月、その下の小さな修道院で死んだ。ペトルスは遺体をひそかにパラクレへ送り、エロイーズに葬らせた。

アベラールがパラクレ修道院をエロイーズに授ける場面(1129年)
アベラールがパラクレ修道院をエロイーズに授ける場面(1129年)Wikimedia Commons H. Clerget · Public domain

エロイーズは20年あまり後に死に、アベラールの隣に葬られた。彼女の棺を墓に下ろすと、彼が腕を広げて迎えた、という話が伝わるが、後世の伝説である。二人の遺骨は幾度も移され、1817年、パリのペール・ラシェーズ墓地に、並んで横たわる石像の下に納められた。いまもそこには、恋人たちが花や手紙を供えにくる。息子アストロラーブがその後どう生きたのかは、ほとんど分かっていない。

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