人物

マニ

Mani
AD216年 – AD277年(享年61・推定)
ササン朝ペルシア重要度 4

概要

バビロニアの洗礼教団に育ち、24歳で啓示を受け、光と闇の二元の宗教を作った。インドへ渡り、シャープール1世に迎えられ、自分で経典を書いて絵で説いた。次の王に鎖で繋がれて死んだ。その宗教はローマから中国まで広がり、1000年続いて、消えた。

所属

ササン朝ペルシア

関わったできごと(1)

マニの処刑AD277年 · 預言者

本文

マニは216年、メソポタミアの中部、ティグリス川のほとりの都クテシフォンに近い村に生まれた。後の信徒の伝承では、誕生日は4月14日とされる。そのころこの地はパルティアの支配下にあったが、8年後の224年、ペルシア人のアルダシールがパルティアを倒し、ササン朝を開く(ササン朝の成立)。マニは、古い王朝が倒れて新しい王朝が立つ、その境目に育った人である。

父パティークはイランのハマダーンの出で、母はパルティアの名家の出だったと伝えられる。マニが4歳のころ、父はユダヤ教とキリスト教の流れをくむ洗礼教団に加わり、幼いマニを連れて教団の村に移った。この教団は、エルカサイという人物を祖とする一派と考えられており、白い衣をまとい、肉や酒を断ち、身を清めるために水による洗礼をくり返していた。マニはこの厳しい戒律の中で少年時代を過ごした。

マニ自身の語るところでは、12歳のとき、天から遣わされた「双子」が現れ、最初の啓示を与えた。双子とは、天上にいるマニのもう一人の自分である。24歳のとき、双子は再び現れ、教団を出て自分の教えを広めよと告げた。マニは、水で体を洗っても魂は清まらない、と教団のやり方を批判するようになり、ついに追われるように教団を離れた。父と二人の弟子が彼に従ったという。これが240年ごろのことで、マニ教の始まりとされる(マニ教の成立)。

マニの教えの柱は、光と闇の二つの原理である。世界は初め、善なる光の国と悪なる闇の国に分かれていたが、闇が光を襲い、光の一部が闇の中に囚われた。人間の魂もまた、肉体という闇に閉じこめられた光のかけらである。救いとは、知識によってこの光を解き放ち、本来の光の国へ帰すことだとした。マニは自らを、ゾロアスターの教えを説いたゾロアスター、インドのゴータマ・シッダールタ、そしてイエスに続く、最後の使徒だと位置づけた。それまでの教えはそれぞれの土地で一部しか伝わらなかったが、自分の教えは世界のすべての人のためのものだと考えたのである。

教団を出たマニは、まず船でインドの方面へ渡った。いまのパキスタン南西部からイラン東部にかけての地で、その地の王トゥーラーンシャーを改宗させたと伝えられる。やがてササン朝の2代目の王シャープール1世が即位すると、マニはペルシアに戻った。王の弟ペーローズの仲立ちで王に会うことができ、王はマニに国内で教えを説くことを許した。マニは王の宮廷に出入りし、王の遠征にも従ったとされる。シャープール1世は、ローマの皇帝ウァレリアヌスを捕らえたことで名高い王である(ローマ皇帝が捕らわれる)。マニは王のために、中世ペルシア語で自分の教えの要点を記した『シャーブフラガーン』を書いて献じた。

マニの際立った点は、自分で経典を書いたことである。彼は、これまでの預言者たちは自分では書かず、弟子たちが書き残したために教えが乱れた、だから私は自分で書く、という趣旨のことを語っている。『生けるゴスペル』『生命の宝』『秘儀の書』『巨人の書』や書簡、詩篇など、7つの書が正典とされた。さらに彼は、教えを絵で示す画集も作った。のちのペルシアの文学では、マニは優れた画家の代名詞となっている。経典を書くためにシリア文字をもとにした独自の文字も用いた。20世紀の初めに中国の新疆のトルファンでドイツの探検隊などが掘り出した写本の中には、この文字で書かれたものや、色鮮やかな細密画で飾られたものが多く含まれていた。

マニは教団の組織も細かく定めた。頂点に12人の教師、その下に72人の司教、360人の長老を置き、その下に厳しい戒律を守る「選ばれた者」と、彼らを支える一般の信徒「聴聞者」がいた。マニは弟子たちを四方へ送った。西へ向かったアッダーはローマ領のシリアやエジプトに教えを伝え、東へ向かったマール・アンモーはイラン東部のホラーサーンへ入った。シルクロードを行き来する商人たちも、この教えを東へ運んだ。

だが、シャープール1世が亡くなると、風向きが変わった。王家の保護のもとで力を強めていたゾロアスター教の神官たち、とりわけ神官長カルティールは、マニの教えを危険な異端とみなした。バフラーム1世の代になって、マニは宮廷に呼び出された。コプト語で残るマニ教の文書によれば、王は彼に、お前は何の役に立つのか、戦にも行かず狩りもしない、と言ったという。マニは鎖につながれて獄に入れられ、26日ののちに死んだ(マニの処刑)。没年は274年から277年のあいだで諸説ある。60歳前後だった。信徒たちはこの日を悼み、毎年春の祭りで、壇上に空の座(ベーマ)を置いて、師が見えない姿でそこにいることを偲んだ。

マニの死後も、教えは広がり続けた。西ではローマ帝国の各地に信徒が生まれ、ディオクレティアヌス帝はペルシアの宗教として厳しく取り締まった。若い日のアウグスティヌスは9年ほど聴聞者としてマニ教に加わり、のちにキリスト教へ移って、マニ教を論駁する書物を多く書いた。東では唐の時代の中国に伝わり、763年ごろにはウイグル可汗国の可汗がマニ教を受け入れて、国の宗教のような位置に据えた。

ウイグル可汗国に関わる図版:Conversion of Bögü Qaghan (759-780 CE) to Manicheism in 762 (detailed of Bögü Qaghan in a suit of armour, kneeling to a
ウイグル可汗国Wikimedia Commons 8th century Manichean painter · Public domain

しかし、各地で異端として迫害を受け、マニ教はしだいに姿を消していった。中国では9世紀半ばの会昌の廃仏とともに禁じられたが、南の福建では細々と信仰が続き、泉州の近くには元の時代に彫られたとされるマニの石像がいまも残る。1000年あまりにわたってローマから中国まで広がったこの宗教は、近代までにほぼ絶えた。自分で書いた経典の多くも失われ、20世紀に砂漠や遺跡から写本が見つかるまで、その教えは主に敵対した側の書物を通してしか知られていなかった。

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