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Person / 人

ジークムント・フロイト

Sigmund Freud
AD1856年5月6日 – AD1939年9月23日(享年83)
オーストリア重要度 5

概要

モラヴィアのフライベルク。4歳からウィーン。神経科医。シャルコーのヒステリー、ブロイアーのカタルシス、コカイン。「話す治療」。『夢判断』『日常生活の精神病理学』『性欲論三篇』『トーテムとタブー』『快感原則の彼岸』『自我とエス』『文化への不満』。ユングとアドラーと別れた。葉巻を1日20本、顎の癌を33回手術した。1938年、ナチスがウィーンに来て、ロンドンへ。翌年、モルヒネで死んだ。

関わったできごと(1)

『夢判断』AD1899年11月4日 · 書いた

本文

1856年5月6日、モラヴィアのフライベルク(プジーボル)。父ヤーコプは羊毛商で40歳、母アマーリエは20歳で、父の3度目の妻。ジークムントは母の最初の子で、「私の黄金のジギ」。1860年、ウィーン。貧しかった。ウィーン大学、医学。ブリュッケの生理学研究所(ウナギの生殖腺、ザリガニの神経細胞)。1882年、マルタ・ベルナイスと婚約(4年、手紙900通)。金がなく、開業のために神経科へ。コカイン(1884年、「万能薬」と論文を書いて、友人を中毒にした。目の麻酔はコラーが見つけた)。

1885〜86年、パリ、サルペトリエール。シャルコーのヒステリー(男にもある。催眠で作れる)。1886年、ウィーンで開業。マルタと結婚。子供6人(アンナが末)。ブロイアーの「アンナ・O」(話すと症状が消える。「煙突掃除」)。『ヒステリー研究』(1895年)。催眠を捨てて、自由連想。「誘惑理論」(1896年、ヒステリーは幼児期の性的虐待)を1897年に捨てて(「私はもう私の神経症患者を信じない」)、幻想と願望へ。フリースへの手紙。自己分析。『夢判断』(1899/1900年)。

ベルクガッセ19番地(1891〜1938年)。診察室、寝椅子(患者からもらったペルシア絨毯をかけた)、古代の像2000体(机の上に並べた)。水曜心理学会(1902年)。アドラー(1911年に去った)、ユング(「皇太子」、1913年に去った)、フェレンツィ、アブラハム、ジョーンズ、ランク。国際精神分析協会(1910年)。

『日常生活の精神病理学』(1901年、言い間違い)、『性欲論三篇』(1905年、幼児性欲、口唇期・肛門期・男根期)、『機知』(1905年)、『ドラ』『ハンス』『鼠男』『狼男』『シュレーバー』。『トーテムとタブー』(1913年、原父殺し)。1920年、『快感原則の彼岸』(死の欲動。娘ゾフィーが死んだ年)。1923年、『自我とエス』(エス、自我、超自我)。1927年、『幻想の未来』(宗教)。1930年、『文化への不満』(文明は欲動の断念。「人間は人間にとって狼」)。1939年、『モーセと一神教』(モーセはエジプト人)。

1923年、顎の癌。33回の手術。上顎に義顎(「怪物」)。葉巻をやめなかった。1930年、ゲーテ賞。1933年、ベルリンで本が焼かれた(「私の本を焼くだけで済むとは、進歩だ」)。1938年3月、ナチスがウィーンに。ゲシュタポがアンナを1日連行した。ジョーンズとマリー・ボナパルトとアメリカ大使が動いて、6月4日、オリエント急行でロンドンへ(「ゲシュタポは私を丁重に扱った」と署名させられた文書に「ゲシュタポを誰にでもお勧めできる」と書き足した、と伝える)。4人の妹はウィーンに残って、1942〜43年、収容所で死んだ。

ロンドン、メアズフィールド・ガーデンズ20番地。1939年9月23日、主治医シューアに頼んだモルヒネで、死んだ。83歳。ゴールダーズ・グリーンで火葬、遺灰はギリシアの壺に。