ジークムント・フロイト
概要
モラヴィアのフライベルク。4歳からウィーン。神経科医。シャルコーのヒステリー、ブロイアーのカタルシス、コカイン。「話す治療」。『夢判断』『日常生活の精神病理学』『性欲論三篇』『トーテムとタブー』『快感原則の彼岸』『自我とエス』『文化への不満』。ユングとアドラーと別れた。葉巻を1日20本、顎の癌を33回手術した。1938年、ナチスがウィーンに来て、ロンドンへ。翌年、モルヒネで死んだ。
関わったできごと(1)
『夢判断』AD1899年11月4日 · 書いた本文
ジークムント・フロイトは、1856年5月6日、オーストリア帝国のモラヴィア地方の小さな町フライベルク(いまのチェコのプシーボル)に生まれた。父ヤーコプはユダヤ人の羊毛商で40歳、母アマーリエは20歳で、父にとって二度目か三度目の妻だった。父には前妻との間に、母と同じ年ごろの息子たちがいた。ジークムントは母の最初の子で、母は彼を「私の黄金のジギ」と呼んで溺愛したと伝えられる。

家業が傾き、一家は1860年にウィーンへ移った。狭い住まいで、子供たちが増えても、勉強のできる長男にだけは自分の部屋が与えられた。ギムナジウムを首席で卒業し、1873年、ウィーン大学の医学部に入った。生理学者ブリュッケの研究所で、彼は研究者を目指した。ウナギの雄の生殖器官を探して数百匹を解剖し、ザリガニの神経細胞を顕微鏡で調べた。
1882年、マルタ・ベルナイスと婚約した。だがユダヤ人の若い研究者に大学の職の見込みは薄く、結婚するには金が要った。彼は研究所を離れ、ウィーン総合病院で臨床を学び、神経科医として開業する道を選んだ。婚約期間の4年間に、彼がマルタに送った手紙は900通を超える。この時期、南米の植物から取れるコカインに目をつけ、1884年、その効き目を称える論文を書いた。友人のモルヒネ中毒をコカインで治そうとして、かえってコカインの中毒にしてしまった。目の手術の麻酔に使えることを見つけたのは同僚のコラーで、名声は彼に行った。

1885年の秋から翌年の初めまで、パリのサルペトリエール病院で、神経学者シャルコーの講義を受けた。シャルコーは、ヒステリーが女性の子宮の病などではなく、男性にも起こり、催眠によって症状を作り出したり消したりできることを示していた。体のどこにも傷がないのに、心の何かが体を動かなくしている。帰国したフロイトは1886年に開業し、マルタと結婚した。子供は6人生まれ、末娘のアンナはのちに父の仕事を継ぐ精神分析家になった。
先輩の医師ブロイアーは、若い女性患者「アンナ・O」が、催眠のもとで症状の始まった場面を語ると、その症状が消えることに気づいていた。患者自身はこれを「お話し療法」と呼んだ。フロイトとブロイアーは1895年に共著『ヒステリー研究』を出した。フロイトはやがて催眠をやめ、寝椅子に横たわった患者に、頭に浮かぶことを何でも、恥ずかしくても無関係に思えても口にさせる方法をとった。自由連想である。
彼は初め、ヒステリーの原因は幼いころの性的な虐待だと考えたが、1897年、親友の医師フリースへの手紙で、その説を捨てたと書いた。そして、患者の語る記憶の多くは、実際の出来事というより、幼いころの願望と空想から作られたものだと考えるようになった。父の死をきっかけに、彼は自分自身の夢と記憶を分析し始めた。こうして生まれたのが『夢判断』である(『夢判断』)。夢は、抑えつけられた願望が姿を変えて満たされたものだ、とする本は、1899年の暮れに刊行されたが、奥付の年は1900年とされた。新しい世紀の本にしたかったのである。初版600部が売り切れるのに8年かかった。

1891年から47年間、彼はウィーンのベルクガッセ19番地に住み、そこで患者を診た。診察室には東洋の絨毯を掛けた寝椅子が置かれ、机と棚には古代エジプトやギリシア、ローマの小さな像が2000点以上も並んでいた。1902年からは、毎週水曜日に自宅で若い医師や文学者と議論する会を開いた。これが精神分析の運動の核になり、1910年には国際精神分析協会ができた。1909年には、弟子のユングとともにアメリカのクラーク大学に招かれて講演し、精神分析は大西洋を越えた。
だが運動は分裂を繰り返した。人を動かすのは性の欲動だけではないとするアドラーは1911年に去った。フロイトが後継者と見込み「皇太子」とまで呼んだユングも、性の理論をめぐって対立し、1913年に決別した。
彼の著作は、心の病の治療を超えて、人間と文化の全体に広がっていった。言い間違いや物忘れの裏にある無意識を論じた『日常生活の精神病理学』(1901年)、子供にも性の欲動があるとして世を騒がせた『性欲論三篇』(1905年)、宗教と社会の起源を原始の父殺しに求めた『トーテムとタブー』(1913年)。第一次世界大戦の大量死を見たあとの1920年には『快感原則の彼岸』で、生を求める欲動と並んで、死へ向かう欲動があると論じた。この年、愛娘ゾフィーがスペイン風邪で死んでいる。1923年の『自我とエス』では、心をエス・自我・超自我の三つの働きに分ける見取り図を示した。1930年の『文化への不満』では、文明は人間の攻撃と性の欲動を抑えることで成り立っており、その代償として人は不幸を抱え込む、と論じた。1932年には、国際連盟の企画でアインシュタインと往復書簡を交わし、人はなぜ戦争をするのかを論じ合っている。

1923年、上顎に癌が見つかった。1日に20本も吸っていた葉巻が原因と考えられた。彼は以後16年間に30回を超える手術を受け、上顎の大部分を失って、口の中に「怪物」と呼んだ大きな義顎をはめて暮らした。話すのも食べるのも苦しくなったが、葉巻はやめられなかった。
1933年、ナチスの政権掌握のあと、ベルリンの広場で彼の本も焼かれた。中世なら私自身が焼かれていただろう、今は本を焼くだけで満足している、と彼は皮肉を言ったと伝えられる。1938年3月、ドイツがオーストリアを併合すると(オーストリア併合)、ナチスの手がウィーンの彼の家にも伸びた。娘アンナがゲシュタポに一日連行された。弟子のジョーンズ、ナポレオンの一族の血を引く弟子マリー・ボナパルト、アメリカの外交官らが奔走し、多額の出国税を払って、6月、82歳のフロイトはウィーンを出た。出国の条件として、当局から丁重に扱われたと証明する文書に署名させられた際、「ゲシュタポを誰にでも心からお勧めできる」と皮肉を書き添えたという有名な話があるが、のちに見つかった文書にその書き込みはなく、後世に作られた逸話と考えられている。ウィーンに残った4人の妹は、のちに収容所で殺された(ホロコースト)。

ロンドンでは、北部のハムステッドの家に、ウィーンの診察室の寝椅子と古代の像がそのまま運び込まれた。そこで最後の著作『モーセと一神教』を仕上げた。モーセはエジプト人だったと論じる本である。癌は手の施しようがなくなり、1939年9月、第二次世界大戦が始まった月に、かねて約束していた主治医シューアにモルヒネを頼んだ。9月23日、83歳で死んだ。遺体は火葬され、遺灰はマリー・ボナパルトが贈ったギリシアの壺に納められた。
精神分析の多くの理論は、科学として検証できないとして今では厳しく批判されている。それでも、無意識、抑圧、心の傷、言い間違いに本音が出るといった考えは、医学の外に広がり、20世紀の文学や芸術、そして私たちの日常の言葉にまで深く入り込んだ。