『孫子』の兵法

概要
呉王闔閭に仕えた孫武の名で伝わる13篇。戦わずに勝つことを上とし、敵を知り己を知れと言う。二千年後のナポレオンも毛沢東も読み、いまはビジネス書として売られている。
場所
31.30°N 120.58°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
孫武(孫子)著者と伝わる本文
『孫子』は、13篇、6000字ほどの短い兵法書である。冒頭は「兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず」で始まる。戦争は国の大事であり、民の生死と国の存亡がかかっているから、よくよく考えなければならない、という意味だ。
その中身は、勇ましさとは逆の方向を向いている。百回戦って百回勝つのは最善ではなく、戦わずに敵の兵を屈服させるのが最善である。敵の国をまるごと手に入れるのが上策で、打ち破るのはその次にすぎない。長い戦争で国が得をした例はない、だから多少まずくても速く終わらせよ、と言う。用兵の害を知り尽くしていない者には、用兵の利も分からない。戦争の本であるのに、戦争をできるだけ避け、避けられないなら短くする本になっている。

一方で、甘い理想論でもない。兵とは詭道なり、と言い切る。できるのにできないふりをし、近づいているのに遠く見せる。勝つ軍はまず勝てる形を作ってから戦い、負ける軍は戦いを始めてから勝ちを求める。敵を知り己を知れば、百戦しても危うくない。間者(スパイ)の使い方に一篇をまるごと割いているのも、情報を重んじるこの本らしい。
著者とされるのは、春秋時代の末の孫武である(孫武(孫子))。司馬遷の『史記』によれば、斉の出身で、兵法書13篇を呉王の闔閭に献じた。紀元前512年ごろのことと考えられている。王は、その兵法を宮中の女官で試してみせよと言った。孫武は180人の女官を二隊に分け、王の寵愛する姫二人を隊長にした。太鼓を打って号令をかけたが、女官たちは笑うばかりで動かない。号令が行き届かないのは将の罪だとして、孫武は説明をくり返した。それでも笑うと、今度は命令が明らかなのに従わないのは隊長の罪だとして、王が止めるのも聞かず二人の姫を斬らせた。その後は、女官たちが寸分たがわず動いたという。

『史記』は、その後孫武が呉の将として西の強国楚を破り、都に攻めこんだと書く(柏挙の戦い)。この戦いでは呉の重臣伍子胥も大きな役割を果たした。ただ、同じ時代の記録である『春秋左氏伝』には孫武の名が出てこない。そのため、宋の時代から孫武の実在を疑う学者がいた。13篇は戦国時代に書かれたもので、孫武の名は後から結びつけられたのではないか、孫武の子孫とされる孫臏の書と同じものではないか、という説である。
1972年、山東省臨沂の銀雀山にある前漢の墓から、大量の竹簡が出土した。その中に、いまの『孫子』とほぼ同じ内容の兵法と、それとは別の『孫臏兵法』が含まれていた。二つの書が別々に存在していたことが、これで確かめられた。孫武その人が実在したかどうかは決着していないが、少なくとも前漢のはじめには、いまの形に近い13篇が読まれていたことになる。

現在読まれている『孫子』の本文は、三国時代の曹操が注をつけて整えたものがもとになっている。曹操は自らも戦場に立つ将であり、兵法家としてこの書を読んだ。宋の時代には、武官の試験に使う七つの兵法書の筆頭に置かれた。
日本には、奈良時代までに伝わっていた。760年、遣唐使から戻った吉備真備が大宰府で役人たちに『孫子』の戦術を教えた、という記事が正史に残る。戦国時代、武田信玄の旗に書かれた「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」は、『孫子』の軍争篇からとられている。

ヨーロッパには、18世紀に中国にいたフランス人のイエズス会士がフランス語に訳して紹介した。ナポレオン・ボナパルトが戦場に携えていたという話がよく語られるが、確かな証拠はなく、後世の伝説とされる。20世紀には、毛沢東が革命戦争の戦略を論じた文章で「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」を引いている。
いま、『孫子』は書店の経営書や自己啓発書の棚にも並んでいる。2500年前の戦争の書が、競争をどう戦い、どう避けるかの本として読まれ続けているのは、それが武器や陣形ではなく、人と組織の動かし方を書いた本だからだろう。