できごと

ラジウムの発見

Discovery of radium
AD1898年
重要度 4
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国Algeria (FR)モロッコイタリアルーマニアブルガリアアイスランドギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1898年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1898年の版図を描いています(25勢力)。

概要

数トンの鉱石から0.1グラムを取り出した。放射能という現象が物質の性質だと分かる。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

マリ・キュリーAD1867年11月7日–AD1934年7月4日 · 当人

本文

1895年の暮れ、ドイツのレントゲンが、物を透かして写す見えない光、X線を見つけた(X線の発見)。翌1896年、フランスのアンリ・ベクレルは、ウランを含む塩が、光を当てなくても、黒い紙に包んだ写真の乾板を感光させることに気づいた。ウランは、何かの放射線を自ら出し続けている。だが、X線ほど目覚ましくないこの発見に、関心を寄せる者は少なかった。

この現象を博士論文の題材に選んだのが、パリの大学で物理と数学を学んだポーランド出身の女性、マリ・キュリー(マリ・キュリー)だった。1867年にワルシャワで生まれた彼女の故国は、当時ロシアなどに分割されて国として存在せず(ポーランド分割)、女性は大学に入れなかった。家庭教師をしてお金を貯め、24歳でパリへ渡った。1895年、物理学者のピエール・キュリーと結婚している。

ラジウム226
ラジウム226Wikimedia Commons grenadier · CC BY 3.0

マリは、ピエールとその兄が考案した精密な電気の測定器を使い、ウランの出す放射線が空気に電気を通す強さを、数字で測った。そして、放射線の強さは、ウランの量だけで決まり、化合物の形や、湿っているか乾いているか、温度などには関係しないことを確かめた。放射線は、化学の反応によるものではなく、ウランの原子そのものから出ているのではないか、と彼女は考えた。この現象に「放射能」という名を与えたのも彼女である。

次に彼女は、手に入るさまざまな物質を調べ、トリウムも放射線を出すことを見つけた。そして、ウランの鉱石の一つピッチブレンドが、含まれているウランの量から予想されるよりもずっと強い放射線を出すことに気づいた。鉱石の中に、まだ知られていない、もっと強い放射線を出す元素が含まれているに違いない。

ラジウム226の放射線源。放射能3300ベクレル
ラジウム226の放射線源。放射能3300ベクレルWikimedia Commons Zátonyi Sándor, (ifj.) Fizped · CC BY 4.0

ピエールも自分の研究を中断してこれに加わった。二人は鉱石を化学的に細かく分け、どの部分に放射線が集まるかを、測定器で追いかけた。1898年7月、ビスマスとともに分かれてくる部分から、新しい元素を見つけたと発表し、マリの故国にちなんでポロニウムと名づけた。12月には、バリウムとともに分かれてくる部分に、もう一つの元素があると発表した。光線を意味するラテン語から、ラジウムと名づけられた。

だが、新しい元素があることを化学者たちに認めさせるには、純粋な形で取り出して、その原子量を測らなければならない。ラジウムは、鉱石の中にごくわずかしか含まれていなかった。二人は、ボヘミアのウラン鉱山から、ウランを取り出した後の鉱石の残りかすを何トンも取り寄せた。実験の場所は、勤め先の学校の、雨漏りのする古い物置小屋だった。マリは、大きな鍋で鉱石を煮て溶かし、自分の背丈ほどもある鉄の棒でかき混ぜ、溶かしては結晶させる作業を、何千回も繰り返した。

ラジウムを実験するマリ・キュリーとピエール・キュリー(アンドレ・カスタイグによる素描)
ラジウムを実験するマリ・キュリーとピエール・キュリー(アンドレ・カスタイグによる素描)Wikimedia Commons André Castaigne · Public domain

1902年、マリはおよそ0.1グラムの純粋な塩化ラジウムを取り出し、ラジウムの原子量を測ることに成功した。発見の発表から、4年近くがたっていた。翌1903年、マリは博士号を得て、その年のノーベル物理学賞を、ピエール、ベクレルとともに受けた(ノーベル賞の始まり)。女性として初めてのノーベル賞だった。

ラジウムは、暗闇で青白く光った。マリは後に、夜、二人で実験室を訪れると、机や棚の上のガラスの容器が、妖精の光のようにかすかに光って見え、それを見るのがいつも新しい感動だった、と書いている。放射線の危険は、まだ知られていなかった。ピエールは自分の腕にラジウムを当てて、皮膚が火傷のようにただれていくのを観察した。それがきっかけとなって、ラジウムをがんの治療に使う研究が始まる。

1927年、米国の放射能の第一次標準として用いられた塩化ラジウムのガラス管
1927年、米国の放射能の第一次標準として用いられた塩化ラジウムのガラス管Wikimedia Commons George K. Burgess, Director, US National Bureau of Standards · Public domain

ラジウムの研究は、物質の考え方を根本から変えた。ラジウムは周りより温かく、何年たってもエネルギーを出し続けた。原子は、それ以上分けられず、変わることもない、というそれまでの前提では説明できない。1902年、イギリスのラザフォードとソディは、放射能が、ある元素の原子が別の元素の原子へと変わっていく現象であることを示した。原子の中に何が詰まっているのかを問う、20世紀の物理学がここから始まる。

1906年、ピエールは雨の日のパリの通りで荷馬車にひかれて亡くなった。マリは彼の後を継いで大学で教え、1910年には金属のラジウムを取り出すことに成功し、翌1911年、ノーベル化学賞を受けた。第一次世界大戦では、X線の装置を積んだ車を仕立て、自ら運転して前線の負傷兵の診察にあたった。

ラジウム塗料を用いた第一次世界大戦期の飛行船用高度計。蛍光硫化亜鉛の劣化で黄変している
ラジウム塗料を用いた第一次世界大戦期の飛行船用高度計。蛍光硫化亜鉛の劣化で黄変しているWikimedia Commons Smithsonian National Air and Space Museum · CC0

一方で、ラジウムは世の中で流行の品にもなり、ラジウム入りの化粧品や飲み物が売られた。アメリカでは、ラジウムの夜光塗料で時計の文字盤を描いていた女性たちが、筆の先をなめて形を整えるうちに体を壊し、多くが亡くなった。

マリは1934年、放射線を長く浴びたことによると考えられる重い貧血で、66歳で亡くなった。彼女の実験ノートは、いまも放射線を出し続けており、パリの国立図書館で鉛の箱に収められている。見るには、防護の用意と、危険を承知したという署名が求められる。ラジウムの放射能が半分に減るまでには、およそ1600年かかる。

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