できごと

ケーララ学派の無限級数

Kerala school's infinite series
AD1400年頃
年に諸説あり重要度 5
バントゥー系の人びとオーストラリア先住民(狩猟採集)明ティムール朝西アフリカの穀作農民マムルーク朝チベットデリー・スルタン朝パガン朝シュリーヴィジャヤエチオピア帝国マジャパヒトマダガスカルマクリアヴィジャヤナガル王国ヒンドゥーと仏教の小国群イスラムの都市国家群ハドラマウトKashmir and Ladakhクメール帝国スコータイ朝大越アユタヤ朝大越Kediriイエメンアルワオリッサマスカットチョーラ朝アチェパーンディヤ朝チャンパシンハラ王国AD1400年頃イリンジャーラクダ(ケーララ)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1400年頃の版図を描いています(34勢力)。

概要

マドハヴァが、円周率と、正弦と余弦と逆正接を、無限に続く項の和で表した。「マドハヴァ・ライプニッツ級数」(π/4=1−1/3+1/5−…)は、ライプニッツより270年早い。誤差の補正項まで作った。微積分の入り口に立っていた。写本はサンスクリットの詩の形で、南インドの外に出なかった。ヨーロッパに伝わったかどうかは、いまも研究されている。

場所

イリンジャーラクダ(ケーララ)
10.34°N 76.21°E · インド・ケーララ州

関わった人(1)

マドハヴァAD1340年頃–AD1425年頃 · 見つけた

本文

インド半島の南西の端、西ガーツ山脈とアラビア海にはさまれた細長い土地がケーララである。胡椒の産地として古くから西方の商人を引きつけ、港町には各地の船が集まった。この地で14世紀の終わりから16世紀にかけて、師から弟子へと数学と天文学を伝える一つの学派が、200年以上にわたって続いた。のちに「ケーララ学派」と呼ばれる人々である。

その祖とされるのが、サンガマグラーマのマドハヴァ(マドハヴァ、1340年ごろ〜1425年ごろ)である。サンガマグラーマはいまのイリンジャーラクダ付近とする説が有力だが、確定してはいない。彼の著作はごく一部しか残っておらず、主な業績は、弟子や孫弟子たちの書物に「マドハヴァはこう述べた」という形で引用されて伝わっている。インドの天文学は、アーリヤバタやブラーマグプタの時代から、惑星の位置を計算するために三角法を発達させてきた。正弦の値の表を作るのが天文学者の基本の仕事で、その精度をどこまで上げられるかが腕の見せどころだった(ゼロと負の数の計算規則の確立についてはブラーマグプタのゼロ)。

『ユクティバーシャー』の写本(1530年頃)
『ユクティバーシャー』の写本(1530年頃)Wikimedia Commons Jyesthadeva (author) J. L. Whish (collector) · Public domain

マドハヴァが成し遂げたのは、円や三角関数の値を、限りなく続く項の和、つまり無限級数で表すことだった。いまの記号で書けば、正弦は x − x³/3! + x⁵/5! − … と、余弦は 1 − x²/2! + x⁴/4! − … と、逆正接は x − x³/3 + x⁵/5 − … と表される。逆正接の式で角を45度にとれば、円周率を4で割ったものが 1 − 1/3 + 1/5 − 1/7 + … という、奇数の逆数を交互に足し引きしていく単純な和になる。ヨーロッパでこれらの級数が見つかるのは17世紀後半で、正弦と余弦の級数はアイザック・ニュートン(1669年ごろ)、逆正接はスコットランドのジェームズ・グレゴリー(1671年)、円周率の級数はゴットフリート・ライプニッツ(1673〜74年)が、それぞれ独立に発表した。マドハヴァはその250年以上前にいたことになる。

円周率の級数には、大きな欠点がある。収束が極端に遅く、小数点以下数桁の正しい値を得るだけでも、何百、何千という項を足さねばならない。マドハヴァはこの問題に気づいていて、途中で足すのをやめたときに残る誤差を見積もり、それを補う項を最後に付け加える方法を工夫した。補正の項は段階的に精度を上げていく形で示されている。こうした工夫と別の速く収束する級数を使って、彼は円周率を小数点以下11桁まで正しく求めたとされる(3.14159265359)。彼の結果は、数を決まった音節に置き換えて韻文の中に詠み込む、インドの伝統的な書き方で記されていた。

シュリー・クーダルマニカム寺院(イリンジャーラクダ)
シュリー・クーダルマニカム寺院(イリンジャーラクダ)Wikimedia Commons Pyngodan · CC BY 2.0

級数を導く道筋も、のちの微積分に通じている。円弧を細かく等分し、小さな部分ごとの変化を足し合わせ、分割を限りなく細かくしていくとどうなるかを考える。その過程で、1からnまでの整数の累乗の和が、nが大きくなるとどう振る舞うかという、極限の考えにあたる議論を使っている。ただし、それは天文計算に必要な値を得るための手段であって、関数一般を扱う「解析学」という独立した学問として組み立てられたわけではなかった。

学派の系譜は、比較的よく分かっている。マドハヴァの弟子パラメーシュヴァラ(1360年ごろ〜1455年ごろ)は、半世紀以上にわたって日食や月食、惑星の位置を観測し続け、それに合わせて計算法を改めた。その流れをくむニーラカンタ・ソーマヤージ(1444〜1544年)は、1501年ごろに『タントラ・サングラハ』を著し、水星・金星・火星・木星・土星が太陽のまわりを回り、その太陽が地球のまわりを回るという、部分的に太陽を中心とする惑星の模型を示した。のちにティコ・ブラーエが唱えた体系とよく似ている。

クライスト・カレッジ(イリンジャーラクダ)
クライスト・カレッジ(イリンジャーラクダ)Wikimedia Commons Challiyan at ml.wikipedia · Public domain

学派の仕事をもっともよく伝えるのが、ジェーシュタデーヴァの『ユクティバーシャー』(1530年ごろ)である。学術の言葉であるサンスクリットではなく、地元の言葉マラヤーラム語の散文で書かれ、しかも結果だけでなく、なぜそうなるのかという論証(ユクティ)を順を追って丁寧に説明している。韻文で結果を覚えさせるのが普通だったインドの数学書の中では異例で、この本を世界最初の微積分の教科書と呼ぶ研究者もいる。学派はその後もアチュタ・ピシャーラティらに受け継がれ、17世紀ごろまで続いた。

これほどの成果が、なぜ広く知られなかったのか。写本はケーララの外にほとんど出なかった。担い手はバラモンの家系に属する少数の学者で、知識は家や寺院を通じて師から弟子へと伝えられた。書かれた言葉も、サンスクリットの韻文か、地域の言葉だった。そして何より、級数は暦や占星術のための天文計算の道具として扱われ、それ自体を探究する数学の分野には育たなかった。

ヨーロッパに伝わった可能性も議論されている。1498年にヴァスコ・ダ・ガマの船がケーララのカリカットに着いて以来(カリカット到着)、ポルトガル人がコーチンなどの港町に拠点を置き、16世紀にはイエズス会の創立の宣教師たちがこの地で活動していた。彼らは暦や航海のための天文学に強い関心を持っていた。数学史家ジョージ・ゲヴァルゲーズ・ジョーゼフらは、ケーララの知識がイエズス会士を通じてヨーロッパに渡った可能性を指摘している。しかし、ニュートンやグレゴリーがインドの成果を知っていたことを示す直接の証拠は、これまで見つかっていない。独立に発見されたと考える研究者のほうが多い。

ヨーロッパの学界がこの学派の存在を初めて知ったのは、1830年代のことである。イギリス東インド会社の役人チャールズ・ウィッシュが、ケーララの写本を読み、ヒンドゥーの学者が流率法(微積分)に相当する方法を持っていたと、王立アジア協会の紀要に報告した。だが彼の報告はほとんど顧みられず、100年あまり忘れられた。20世紀の半ば以降、インドの数学史家たちが写本を校訂し、読み直したことで、ようやくマドハヴァの名は数学史の中に正当な位置を得つつある。円周率の級数を「マドハヴァ=ライプニッツ級数」と呼ぶ言い方も広まってきた。

同じ時代のできごと

ハウサ諸都市とカノAD11〜15世紀ウィクリフの英語聖書AD1382年頃クリコヴォの戦いAD1380年9月8日ワット・タイラーの乱AD1381年6月『カンタベリー物語』AD1387年頃ブルゴーニュ公の宮廷1384年クレヴォの合同AD1385年8月14日五山の制AD1386年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1400年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →