人物

クリストファー・クラヴィウス

Christopher Clavius
AD1538年3月25日頃 – AD1612年2月6日(享年73)
教皇領重要度 3

概要

バンベルクの生まれ。イエズス会に入り、ローマ学院で四十年以上、数学を教えた。ユークリッドの注釈と算術の教科書は各国語に訳され、イエズス会の学校を通じて中国にも渡った。徐光啓と利瑪竇が訳した『幾何原本』は彼の版による。グレゴリオ暦の改暦委員会の中心となり、リリオの案を検討し、細部を定め、批判に反論する著作を書いた。ガリレオと文通し、望遠鏡による木星の衛星の観測を確認した。月にクラヴィウスの名のクレーターがある。

関わったできごと(1)

グレゴリオ暦への改暦AD1582年10月15日 · 暦の委員会

本文

クリストファー・クラヴィウスは1538年ごろ、ドイツ南部フランケン地方のバンベルクに生まれた。本当の名は分かっていない。クラヴィウスはラテン語風の名で、ドイツ語の姓を訳したものとされ、もとは「クラウ」だった、あるいは「鍵」を意味する語だった、などの説があるが、どれも確証がない。

クリストファー・クラヴィウスの肖像
クリストファー・クラヴィウスの肖像Wikimedia Commons Francesco Villamena · Public domain

1555年、彼はローマでイエズス会に入った。創立者のイグナティウス・デ・ロヨラ本人が受け入れたと伝えられる。会が教皇に認められてから、まだ15年しかたっていなかった。1560年にはポルトガルのコインブラ大学で学び、8月21日の皆既日食を見た。この体験が自分を天文学へ向かわせたと、本人がのちに書いている。

1560年代の半ばから、彼はローマ学院で数学を教え始めた。イエズス会の中心となる学校である。以後40年以上、死ぬまでそこにいた。

In Sphaeram Ioannis de Sacro Bosco commentarius (『サクロボスコ天球論註解』), 1585
In Sphaeram Ioannis de Sacro Bosco commentarius (『サクロボスコ天球論註解』), 1585Wikimedia Commons Christopher Clavius · Public domain

当時の学問の序列で、数学は低く見られていた。上には神学と哲学がある。数学は物事の本当の原因を示さないから真の学問ではない、という議論もあった。クラヴィウスはこれに強く反対し、数学こそ最も確かな学問だと説いた。そして1599年にまとめられたイエズス会の教育の規則に、数学の授業を組み込ませた。その結果、ヨーロッパ中に広がったイエズス会の学校が、数学を教える場になった。17世紀の科学を担う人々の多くが、その教室を通っている。

彼の書いた教科書は、各国で長く使われた。算術、代数、球面の天文学、日時計の作り方、天体の高さを測る器械アストロラーベの使い方。全集は5巻に及ぶ。1593年のアストロラーベについての著作には、小数の区切りに点を打った表があり、小数点の最も早い使用例の一つとされる。なかでも1574年に出した『原論』の注釈版は、最も広く読まれた版の一つになった。この本は中国へも渡った。ローマ学院で彼に学んだマテオ・リッチ(利瑪竇)が北京で、明の学者・徐光啓とともに前半の6巻を漢文に訳し、1607年に『幾何原本』として出したのである。「幾何」「点」「線」「平行」などの語は、多くがこの訳から広まり、いまも中国語と日本語で使われている。

天文学者クリストファー・クラヴィウスの肖像
天文学者クリストファー・クラヴィウスの肖像Wikimedia Commons Rijksmuseum · CC0

もう一つの大仕事が暦だった。1570年代、彼は教皇グレゴリウス13世が設けた改暦の委員会に加わった。もとの案を考えたのはイタリアの医師アロイシウス・リリウスだが、リリウスは1576年に死んでいた。クラヴィウスはその案を検討し、計算をやり直し、細部を詰めた。とくに、復活祭の日を決めるための月の満ち欠けの表を、くり返し確かめた。改暦は1582年に実施された(グレゴリオ暦への改暦)。

新しい暦には批判が殺到した。フランスの数学者ヴィエトは月の表を攻撃し、ヨハネス・ケプラーの師メストリンはプロテスタントの立場から反対した。当代随一の古典学者スカリゲルも批判に加わり、クラヴィウスを「ドイツの太鼓腹」とののしったと伝えられる。クラヴィウスは大部の反論書を次々に書いて応じ、その説明がやがて新しい暦の標準の解説になった。

1587年、23歳のガリレオ・ガリレイがローマにクラヴィウスを訪ね、二人の文通が始まった。若いガリレオにとって、彼は仰ぎ見る大家だった。1610年、ガリレオは『星界の報告』を出し、木星に四つの衛星があること、月の表面がなめらかではないことを報じた。多くの学者は信じず、望遠鏡が幻を見せているのだと言った。クラヴィウスも初めは疑った。

それから彼は、自分で望遠鏡をのぞいた。1610年の暮れ、ローマ学院の仲間とともに、木星の衛星を確かめた。翌1611年、枢機卿ベラルミーノの問い合わせに対して、学院の数学者たちは観測を裏づける回答を出し、学院はガリレオを迎えて公式の式典まで開いた。教会の権威ある学者たちのこの確認が、ガリレオの発見を認めさせる決め手になった。教会とガリレオの間が、まだ良かったころである。

ただ、クラヴィウスは地動説を受け入れなかった。観測は認めたが、地球を中心とする宇宙の体系そのものは手放さなかった。晩年の著作には、天文学者はこうした現象を説明できるよう天球の配置を考え直さなければならない、という一節がある。この言葉をどこまで踏み込んだものと読むかは、いまも議論が分かれる。

1612年2月6日、クラヴィウスはローマで死んだ。73歳ごろだった。ガリレオの異端審問が開かれたのは、それから21年後の1633年である。彼はそれを見ていない。

ガリレオの異端審問に関わる図版:Galileo before the Holy Office - Joseph-Nicolas Robert-Fleury, 1847
ガリレオの異端審問Wikimedia Commons Joseph-Nicolas Robert-Fleury · Public domain

月の南半球に、彼の名をとったクラヴィウス・クレーターがある。直径はおよそ230キロで、小さな望遠鏡でも見える大きなクレーターだ。映画『2001年宇宙の旅』で月面基地が置かれたのもここだった。そして、私たちが毎日使っている日付は、彼が守り抜いた規則の上にある。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1538年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →