カール・マルクス
概要
産業社会の仕組みを分析し、歴史を階級の争いとして描いた。20世紀の国家の形を左右する。
関わったできごと(5)
『共産党宣言』AD1848年2月21日 · 書いた1848年革命1848年 · この年に『共産党宣言』を出す第一インターナショナルAD1864年9月28日 · 宣言を書いた『資本論』AD1867年9月14日 · 書いたパリ・コミューンAD1871年3月18日 · 内乱を書いた本文
1818年5月5日、プロイセン領ラインラントの古い町トリーアに生まれた。父ハインリヒは弁護士で、代々ラビを出してきたユダヤ人の家の出だったが、ユダヤ人が公職に就けなくなる規制のなかで、息子が生まれる前にプロテスタントへ改宗している。ナポレオンの時代にフランスの支配を受けたこの地方には、啓蒙の思想と、身分によらない法の記憶が残っていた。

ボン大学で法学を学んだが、酒と決闘で騒ぎを起こし、父の判断でベルリン大学へ移された。そこでヘーゲル『精神現象学』の哲学者ヘーゲルの弟子筋にあたる若い急進派の輪に加わる。歴史は矛盾を通して進むというヘーゲルの考え方を受け継ぎながら、それを観念ではなく、物の生産と人の暮らしの側から読み替えていくことになる。古代ギリシアの自然哲学についての論文で博士号を取ったが、大学に職は得られなかった。
新聞記者として出発した。1842年、ケルンの『ライン新聞』の編集長になり、貧しい農民が森で枯れ枝を拾うことが窃盗として罰せられる問題などを論じた。だが翌年、政府の検閲で新聞は廃刊になる。同じ年、幼なじみで、貴族の家の娘イェニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚した。身分違いの結婚で、彼女は生涯、困窮の中でもマルクスを支えた。
パリへ移り、1844年、終生の協力者となるフリードリヒ・エンゲルスと出会った。エンゲルスはドイツの紡績工場主の息子で、イギリスのマンチェスターで工場労働者の暮らしを見てきた人である。パリを追われてブリュッセルへ移り、1848年2月、二人で『『共産党宣言』』を書く。これまでのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である、という一文で始まり、「万国の労働者、団結せよ」で終わる小冊子だった。

出版の直後、ヨーロッパ各地で1848年革命が起きた。マルクスはケルンに戻って新聞を出したが、革命は退潮し、1849年に追放される。行き着いたのがロンドンで、そこで残りの生涯を送った。プロイセンの国籍はすでに捨てており、無国籍のままだった。
革命の挫折は、彼にとって分析の材料になった。フランスで革命の後にナポレオンの甥が権力を握るまでを描いた『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』には、人間は自分で歴史を作るが、自分で選んだ状況のもとで作るのではない、という一節がある。英雄や思想だけでなく、人が置かれた条件から歴史を見る、という彼の見方がよく表れている。

ロンドンの暮らしは貧しかった。ソーホーの狭い借家に一家で住み、家具を差し押さえられ、質屋に通った。アメリカの新聞『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』への寄稿が一時の収入源になったが、生活の多くはエンゲルスの仕送りに支えられていた。7人の子のうち、成人したのは3人の娘だけである。幼い子の死の原因の一部は貧しさだったとされる。家政婦ヘレーネ・デムートが産んだ男の子の父親はマルクスだったという説が有力で、エンゲルスが自分の子として引き受けたとされる。
その一方で、毎日のように大英博物館の閲覧室に通い、経済学の文献とイギリス議会の工場調査の報告書を読み込んだ。1864年には各国の労働者の組織が集まる第一インターナショナルの創立にかかわり、その宣言を起草している。1867年、『『資本論』』の第1巻を出した。

分析したのは、労働が商品になった社会の仕組みだった。労働者は働く力を賃金と引き換えに売るが、その力が生み出す価値は賃金より大きい。その差が利潤として資本家のものになり、資本はふくらみ続け、競争の中で機械が人を置き換え、景気は好況と恐慌を繰り返す。道徳的な非難ではなく、なぜそうなるのかを構造として説明しようとしている。若い頃のメモには、哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ、大事なのは世界を変えることだ、という一節がある。
1871年のパリ・コミューンでは、パリの労働者たちが短い自治を行い、政府軍に鎮圧された。マルクスはこれを労働者の政府の先例としてたたえる文書を書き、名前がヨーロッパ中に知られるようになる。だが『資本論』の続きは書き終えられなかった。晩年は持病に苦しみ、妻と長女に先立たれた。

1883年3月14日、ロンドンの自宅の肘掛け椅子で、眠るように死んでいるのが見つかった。64歳。ハイゲイト墓地での葬儀に集まったのは十数人だったと伝わる。『資本論』の第2巻と第3巻は、残された草稿をエンゲルスが編集して出版した。
墓前でエンゲルスは、ダーウィンが生き物の発展の法則を見つけたように、マルクスは人間の歴史の発展の法則を見つけた、と述べた。
予言のほうは当たらなかった。革命は最も進んだ工業国ではなく、ロシアと中国という農業国で起きた。レーニンらは、その名を掲げてロシア革命を起こし、一党独裁の国家を作った。マルクス自身は、自分の考えを都合よく使う人々に向けて、自分はマルクス主義者ではない、と言ったとエンゲルスが伝えている。

その名で作られた国々が何をしたかは、この年表の別のところにある。それでも、景気の波、格差、技術が仕事を奪う不安といった問題を考えるとき、彼の書いた分析はいまも読まれ、批判され続けている。資本主義を最も深く批判した人が、資本主義の最もよい観察者の一人でもあった。