朱熹(朱子)
概要
四書を選んで注を付け、理と気で世界を説いた。役人としては9年、あとは教えて書いた。生前は「偽学」として弾圧され、死んで100年で科挙の正解になる。以後600年、東アジアの読書人はこの本で試験を受けた。
所属
宋関わったできごと(2)
朱熹の白鹿洞書院AD1179年 · 再興朱子学の成立AD1190年 · 体系にした本文
1130年、南宋の福建の山あいの町、尤渓に生まれた。宋はその数年前、北方の女真族の金に都の開封を奪われ、皇帝親子を連れ去られて、長江の南に逃れたばかりだった。父の朱松は地方の役人で、金との和議に反対して朝廷の主流から外された人である(紹興の和議と岳飛の死)。朱熹は幼いころから考え込む子どもで、父が空を指して、あれが天だと教えると、天の上には何があるのかと尋ねて父を驚かせたと伝えられる。

14歳で父を亡くした。父は死ぬ前に、福建に住む三人の学者に息子の教育を託した。朱熹はその一人劉勉之の娘と後に結婚している。勉強は速く進み、19歳で科挙の最終試験に合格して進士となった。進士は宋の官僚の出世の入口で、合格者の平均よりかなり若い(宋の科挙と士大夫)。
だが朱熹は、役人としての出世にはあまり関心を示さなかった。生涯で実際に任地に出て働いたのは、合わせて9年ほどにすぎない。残りの年月は、名目だけの祠の管理職をもらってその俸給で暮らし、書物を読み、書き、弟子を教えた。

若いころは禅や道教にも惹かれた。転機になったのは、20代の半ばから父の友人の学者李侗のもとに通ったことである。李侗は、北宋の程顥・程頤の兄弟に始まる学問の流れを受け継ぐ人だった。朱熹はここで仏教から離れ、儒学の古典を一生をかけて読み直すことになる。
朱熹の考えでは、世界のあらゆるものは「理」と「気」でできている。理は、ものがそのものであるための筋道、あるべき姿である。気は、ものの形や性質を作る素材である。人の本性は理そのものであり、本来は善である。ところが人はそれぞれ違う気を受けて生まれ、気が濁っていると欲に曇らされ、悪に流れる。だから人は学ばなければならない。一つ一つのものに即して、その理を窮めていけば、やがて世界の理が一つにつながって見える日が来る。これを「格物致知」と言った。内には心を慎み深く保ち、外には理を窮めること。この二つを車の両輪とした。

この考えを伝えるために、朱熹は古典の中から四つの書物を選び出した。『論語』と『孟子』、そしてもともと経典『礼記』の中の二つの篇にすぎなかった『大学』と『中庸』である。これを四書と呼んで一組にし、一字一句に注を付けた。『四書集注』である。読む順番も決めた。まず『大学』で学問の枠組みをつかみ、『論語』で根本を立て、『孟子』で広げ、最後に『中庸』で奥義に触れる。弟子との問答は、死後に『朱子語類』140巻としてまとめられた。朱熹の学問がまとまっていく過程は朱子学の成立に詳しい。
学問を語り合う相手との論争も多かった。1175年、学者の呂祖謙の仲立ちで、江西の鵝湖の寺で陸九淵と議論した。陸九淵は、理は外のものに求めるのではなく、自分の心そのものが理なのだと説いた。本を読み、ものを一つずつ調べていく朱熹のやり方は、陸九淵の目には回り道に見えた。朱熹にとっては、陸九淵の考えは禅に近く、根拠のない思い込みに陥る危険があった。二人は合意に至らなかった。300年後、明の王陽明がこの陸九淵の側を受け継いで、心の学問を大きく花開かせることになる。
地方官として働いた短い期間には、実務家の顔を見せた。1179年に南康軍(いまの江西省北部)の長官になると、荒れ果てていた廬山のふもとの白鹿洞書院を建て直し、学規を定めて自ら講義した(朱熹の白鹿洞書院)。飢饉が起きると、豊作の年に穀物を蓄えて凶作の年に貸し出す「社倉」の仕組みを広めた。不正を働いた地方の有力な役人を厳しく弾劾し、恨みを買ったこともある。
1194年、新しく即位した皇帝寧宗の侍講に招かれた。皇帝に経典を講じる名誉ある役目である。しかし朱熹は講義の場で、皇帝の側近の専横をはっきりと批判した。わずか40日あまりで職を解かれた。

その側近の韓侂冑が権力を握ると、朱熹とその仲間への攻撃が始まった。1196年、彼らの学問は「偽学」と名指しされ、その一派に連なる官僚たちは名簿に載せられて朝廷から追われた。慶元の党禁と呼ばれる弾圧である。朱熹も官職を奪われ、朱熹を斬るべしという上書まで出された。弟子の中には師から離れる者もいた。
それでも朱熹は書き続けた。死の数日前まで『大学』の注の手直しをしていたという。1200年、福建の建陽で死んだ。71歳だった。葬儀には各地から弟子たちが集まろうとしたが、朝廷は彼らが集まって政治を批判するのを恐れ、役人に監視させた。

死後、評価はひっくり返った。弾圧はまもなく解かれ、朱熹には名誉が贈られ、1241年には孔子廟に祀られた。そして死から100年あまり後、モンゴル人の元が科挙を再開したとき、試験の答えは朱熹の四書の注に基づいて書くことと定められた(科挙そのものについては科挙の始まり)。明も清もこれを受け継いだ。以後600年、中国の読書人は、朱熹の注を暗記して試験に臨んだ。
朱子学は国の外へも広がった。朝鮮王朝はこれを国の理念とし、李滉(退渓)らの学者が朱熹の学問をさらに深く論じた。日本では江戸幕府が朱子学を重んじ、林羅山の家が幕府の学問を担った。上下の秩序を天の理として説く朱子学は、身分社会を支える教えとして、東アジアの国々の政治と家族のあり方に長く影響を与えた。近代に入ると、その秩序の考え方は個人の自由を縛るものとして厳しく批判された。
自分の生きている間は「偽学」の徒として追われ、死んでからは国家公認の正統の学問になった。皮肉なことに、試験の正解とされたことで、朱熹の学問は自分で理を窮めるという本来の精神を離れ、決まった答えを覚える学問になっていった、とも言われる。