概要
ポツダム近郊の貴族の家。弟は探検家アレクサンダー。ゲーテとシラーの親友で、シラーの創作に長く助言した。外交官としてローマとウィーンに駐在し、ウィーン会議に出た。1809年から1年半だけ内務省の教育部門を率い、その短い期間に初等教育の改革とベルリン大学の設立を進めた。晩年は言語学に没頭し、バスク語、ジャワの古ジャワ語、アメリカ先住民の言語を研究した。言語は世界を写すのではなく、世界の見方そのものを形づくる、と論じた。
関わったできごと(1)
フンボルトの大学AD1810年 · 構想した本文
1767年6月22日、ポツダム。父は宮廷に仕える軍人、母は富裕なユグノー系の家の娘。
**弟**が、**アレクサンダー・フォン・フンボルト**(後の博物学者・探検家。南米を5年かけて調査し、近代地理学と生態学の礎を築いた)。
兄弟は、家庭教師によって、極めて充実した教育を受けた。啓蒙思想、古典語、数学、そして自然科学。
**ゲーテとシラー**。
1789年、フランクフルト・アン・デア・オーダー大学、次いでゲッティンゲン大学。法学と古典文献学。
1794年、イェーナに移り住んだ。
**シラー**と、深く親しくなった。
(彼らは、ほぼ毎日会って、議論した。シラーが『美的教育書簡』と『素朴文学と情感文学について』を書いた時期である。フンボルトは、その草稿を読み、意見を述べた。シラーの死〈1805年〉の後、フンボルトが書いた回想は、この友情の記録として読まれ続けている。)
**ゲーテ**とも交わった。
**若い頃の思想**。
1792年、『**国家活動の限界を規定するための試論**』(生前は一部しか公刊されず、全体の出版は1851年)。
主張——**国家の活動は、最小限であるべきである**。
「国家は、市民の安全を守る以外のことをしてはならない。……国家が市民の福祉を積極的に配慮すると、**人間は画一化され、その最も高い価値である個性が失われる**」。
彼の中心の概念——**ビルドゥング**(Bildung)。
訳しにくい語である。「教養」「形成」「陶冶」。
**人間が、自分の中にある可能性を、多様に、そして調和的に、最大限に展開すること**。
そして、そのためには、**自由**と、**多様な状況との出会い**が必要である。
(この本は、後にジョン・スチュアート・ミルの『自由論』〈1859年〉の題辞に引用された。ミルは、フンボルトのこの主張を、自由主義の基礎の一つとして受け継いだ。)
**外交官**。
1801〜08年、**ローマ**。プロイセンの教皇庁駐在公使。
(実質的に閑職である。彼は、古典の研究と、ローマの発掘の見学と、そして芸術家との交わりに時間を使った。彼の子の一人が、ここで死んだ。)
**1809年2月**、内務省の**文教局長**(宗務・教育部門の長)に任命された。
彼は、この職を望んでいなかった。「私は行政官には向いていない」と書いている。
在任、**16か月**。
**その16か月でしたこと**。
- **初等教育の改革**。ペスタロッチの方法を採用し、教員をスイスへ派遣して学ばせた。 - **教員養成**の制度化。教員に国家資格を課した。 - **ギムナジウム**の再編。古典語(ギリシア語とラテン語)を中心とする教養教育。卒業試験(**アビトゥア**)を、大学入学の要件として整えた。 - そして、**ベルリン大学の設立**(1810年)。
彼は、開校の前に辞任した。
(財政をめぐって大蔵大臣と対立し、また、彼の提案が閣議で通らなかったことによる。)
**大学の理念**。
- **研究と教育の一致** - **学問の自由**(教える自由と、学ぶ自由) - **孤独と自由** - **純粋な学問**(実用の目的から離れて、真理そのものを求める)
(彼の覚え書きは未完で、生前は公刊されなかった。1900年頃に発見され、以後、「フンボルト理念」として語られるようになった。つまり、この理念が「フンボルトのもの」として権威を持つのは、20世紀に入ってからである。)
**その後の公職**。
- 1810〜13年、ウィーン駐在公使。 - 1814〜15年、**ウィーン会議**に、プロイセンの全権の一人として参加。 - 1815年、パリ条約の交渉。 - 1817〜18年、ロンドン駐在公使。 - 1819年、内務大臣。
**辞任**。
1819年、**カールスバート決議**。
(ドイツ連邦が、大学の監視、出版検閲、学生団体の禁止を定めた。反動の時代である。)
フンボルトは、これに**反対した**。
そして、憲法の制定を求めた。国王は応じなかった。
**1819年12月31日、罷免された**。
52歳。以後、彼は公職に就かなかった。
**言語学**。
残りの16年、彼はベルリン郊外の**テーゲル城**にこもり、**言語**を研究した。
彼が扱った言語——バスク語、サンスクリット、中国語、**古ジャワ語(カウィ語)**、アメリカ先住民の諸言語、ポリネシアの言語、エジプト語。
(弟アレクサンダーが、南米から資料を送った。)
**思想**。
彼の言語論の中心。
**言語は、既にある思考を表現する道具ではない。言語こそが、思考を形づくる**。
「言語は、エルゴン(作られたもの)ではなく、**エネルゲイア**(働き)である」。
(彼は、言語を、完成した体系としてではなく、絶えず生成する活動として見た。)
そして——
「**それぞれの言語には、それぞれの世界観(Weltansicht)が含まれている**」。
(この主張が、20世紀に**サピア=ウォーフの仮説**——言語が思考を規定する——の先駆として、繰り返し引かれた。ただし、フンボルト自身の主張は、より穏当で、言語が世界の「見方」を条件づけるが、決定するとは言っていない、という読み方もある。)
彼の主著『**ジャワ島のカウィ語について**』(死後、1836〜39年に刊行)。
その序論が、「**人間の言語構造の相違と、それが人類の精神的発展に及ぼす影響について**」。
**晩年**。
妻**カロリーネ**(1791年結婚)を、1829年に失った。
彼は、その後、彼女に宛てて**ソネットを書き続けた**。数百編。
(彼らの往復書簡は、19世紀ドイツの最も豊かな書簡集の一つとされる。)
1835年4月8日、テーゲル城で死去。67歳。
弟アレクサンダーが、彼を看取った。
**残ったもの**。
- **ベルリン・フンボルト大学**(1949年から、兄弟の名を冠している)。 - ドイツのギムナジウムと、その古典教育の伝統。 - **アビトゥア**。 - そして、世界中の大学が採る「研究する教授が、学生を教える」という形。
彼が実際に教育行政に関わったのは、**1年半**である。