できごと

ドミニコ会の認可

Dominican Order approved
AD1216年12月22日
重要度 5
北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグの遊牧諸部族クマン(キプチャク)ベルベル諸部族アイユーブ朝キエフ・ルーシブワイフ朝ファーティマ朝神聖ローマ帝国サーミそのほかのルーシ諸公国ノルウェーイファト王国ヴォルガ・ブルガールムワッヒド朝ノヴゴロド公国マクリアウラジーミル・スーズダリ公国ルーム・セルジューク朝ポーランド王国スウェーデンブルガール可汗国アンジュー帝国ハンガリー王国ガーリチ=ヴォルィーニ公国フランス王国東ローマ帝国アルメニアケルト系の諸王国キーウ公国IbaditesComté de ToulouseデンマークLeónブルゴーニュポルトガルスコットランドジョージアヴェネツィア共和国Dutchy of BeneventoAD1216年12月22日トゥールーズ
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概要

カスティーリャの司祭ドミニコが、ラングドックでカタリ派に会って、説教で戻すには、彼らのように貧しく、彼らより学んでいなければならない、と考えた。「説教者修道会」。托鉢、学問、都市、大学。パリとボローニャ。アルベルトゥス、トマス・アクィナス。1231年から、教皇の異端審問官はドミニコ会士が多かった。「主の犬(ドミニ・カネス)」。

場所

トゥールーズ
43.60°N 1.44°E · フランス・オクシタニー地域圏

関わった人(1)

ドミニコAD1170年–AD1221年8月6日 · 作った

本文

12世紀の終わりから13世紀の初め、南フランスのラングドック地方では、カタリ派と呼ばれる人々の信仰が広がっていた。世界は善の神と悪の神の戦いの場であり、物質の世界は悪に属する、と彼らは考えた。その指導者である「完徳者」たちは、肉を食べず、財産を持たず、粗末な服で村から村へ歩いて教えを説いた。豪華な装いの司教や、富と特権を持つ修道院を見慣れた人々の目には、どちらが福音書の使徒に近いかは明らかだった。

1203年、カスティーリャのオスマの司教ディエゴは、国王の命で王子の縁談をまとめるために北の国へ旅をした。供をしたのが、司教座聖堂の参事会員だった30代の司祭ドミニコ(ドミニコ)である。カスティーリャのカレルエガの生まれで、パレンシアで学び、飢饉のときには自分の本を売って貧しい人に施したと伝えられる。旅の途中、トゥールーズで泊まった宿の主人がカタリ派だった。ドミニコは夜通し語り合い、朝には主人を正統の信仰に戻したという。弟子が書き残した、最初の逸話である。

フラ・アンジェリコ『ペルージャ祭壇画』の聖ドミニコ
フラ・アンジェリコ『ペルージャ祭壇画』の聖ドミニコWikimedia Commons Fra Angelico · Public domain

数年後、ディエゴとドミニコは、カタリ派への説教に送られていた教皇の使節たちと出会う。シトー会の修道院長たちは、馬と従者を連れ、立派な装いで説教していたが、人々の心をつかめずにいた。ディエゴは彼らに勧めた。馬を降り、荷を捨て、裸足で歩いて、使徒のように貧しく説け、と。説教でカタリ派を取り戻すには、彼らと同じように貧しく、彼らよりもよく学んでいなければならない。この考えが、のちのドミニコ会の芯になる。1206年頃、ドミニコはプルイユに、カタリ派から戻った女性たちのための修道院を作った。カタリ派は貴族の娘たちを自分たちの家で育てていたので、正統の側にも同じ受け皿が要ったのである。ドミニコの会の最初の家は、女性の修道院だった。

1208年、教皇の使節が殺されたのをきっかけに、教皇インノケンティウス3世は南フランスへの十字軍を呼びかけた。北フランスの騎士たちが南を蹂躙したアルビジョア十字軍である。ドミニコは十字軍の指揮者シモン・ド・モンフォールと親しかったが、剣はとらず、説教を続けた。異端審問の制度ができるのは彼の死後であり、ドミニコ自身を審問官と呼ぶのは正しくない。

アルビジョア十字軍に関わる図版:Le massacre des Albigeois
アルビジョア十字軍Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1215年、トゥールーズの裕福な市民ピエール・セイランが自分の家を寄進し、ドミニコと6人の仲間はそこで共同生活を始めた。トゥールーズの司教フルクは、彼らを教区の説教者として認めた。同じ年、ローマで開かれた第4ラテラノ公会議は、新しい修道会の会則を作ることを禁じ、既存の会則から選ぶよう定めた。ドミニコは、柔軟で、町で働く聖職者のための聖アウグスティヌスの会則を選び、そこに独自の規定を加えた。1216年12月22日、教皇ホノリウス3世がこの共同体を認可し、翌年には「説教者修道会」の名が与えられた。

1217年8月、ドミニコは十数人の仲間を集め、散らばるように命じた。何人かを大学の町パリへ、何人かをスペインへ、残りをトゥールーズに置き、自分はローマへ向かう。穀物は積んでおけば腐るが、蒔けば実る、と彼は言ったと伝えられる。仲間たちは驚き、悲しんだが、従った。1218年にはパリ大学のそばのサン・ジャックに、同じ頃ボローニャ大学のそばにも修道院ができた。1220年と1221年、ボローニャで総会が開かれ、会の仕組みが定まる。会として財産を持たず、施しで暮らす托鉢の修道会であること。各修道院に教師を置き、修道士は説教のために学ぶこと。院長は修道士が選び、総会には各地の代表が集まること。何もかもが説教のためにあった。1221年8月、ドミニコはボローニャで世を去り、1234年に聖人とされた。

ほぼ同じ時代に、イタリアではアッシジのフランチェスコの托鉢修道会も認められている(フランチェスコ会の認可)。修道院を人里離れた荒野に置いた古い修道会と違い、二つの托鉢修道会は都市の中に住み、町の人々に説いた。ドミニコ会はとくに大学と結びつき、すぐれた学者を次々に生んだ。ケルンとパリで教えたアルベルトゥス・マグヌス、その弟子のトマス・アクィナス(トマス・アクィナス『神学大全』)、ドイツの神秘思想家エックハルトは、みなドミニコ会士である。画家フラ・アンジェリコも、フィレンツェで説教したサヴォナローラも、この会の人だった。

トマス・アクィナス『神学大全』に関わる図版:SummaTheologiae
トマス・アクィナス『神学大全』Wikimedia Commons Public domain

会のもう一つの顔は、異端審問である。1231年頃から、教皇グレゴリウス9世は異端を取り調べる審問官を各地に送り、その多くをドミニコ会士とフランシスコ会士から選んだ。学問があり、各地を動き回り、教皇に直接従う彼らは、その役にうってつけだった。南フランスの村を調べた審問の記録も残る(モンタイユーの異端審問)。15世紀のスペインの異端審問所を率いたトルケマダも、魔女狩りの手引き書を書いたクラーマーも、ドミニコ会士だった。ドミニコ会士は「主の犬(ドミニ・カネス)」と呼ばれた。会の名を、主を守る犬に掛けた語呂合わせである。ドミニコの母は身ごもったとき、松明をくわえた犬が世界を照らす夢を見たという伝説もある。説教で異端を取り戻そうとして生まれた会が、やがて異端を裁き、火刑台へ送る側に立つことになった。

だが、同じ会から、権力を告発する声も上がった。1511年、カリブ海のイスパニョーラ島で、ドミニコ会士アントニオ・デ・モンテシーノスは、先住民を虐げる入植者たちを説教壇から激しく非難した。その声に動かされたラス・カサス(バルトロメ・デ・ラス・カサス)も、のちにドミニコ会に入る。1600年にローマで焼かれた哲学者ジョルダーノ・ブルーノも、若い頃はドミニコ会の修道士だった。会の紋章に掲げられた言葉は「真理」である。

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