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Event / できごと

ドミニコ会の認可

Dominican Order approved
AD1216年12月22日
重要度 5

概要

カスティーリャの司祭ドミニコが、ラングドックでカタリ派に会って、説教で戻すには、彼らのように貧しく、彼らより学んでいなければならない、と考えた。「説教者修道会」。托鉢、学問、都市、大学。パリとボローニャ。アルベルトゥス、トマス・アクィナス。1231年から、教皇の異端審問官はドミニコ会士が多かった。「主の犬(ドミニ・カネス)」。

場所

トゥールーズ
43.60°N 1.44°E · フランス・オクシタニー地域圏

関わった人(1)

ドミニコAD1170年–AD1221年8月6日 · 作った

本文

1203年。オスマ(カスティーリャ)の司教ディエゴが、王の子の縁談でデンマークへ行った。参事会員ドミニコ(33歳)が同行した。トゥールーズの宿の主人がカタリ派だった。ドミニコは一晩議論した。朝、主人は改宗した。

1206年、モンペリエ。教皇の使節(シトー会士たち)が、カタリ派の説教に負けていた。馬と従者を連れた修道院長が、裸足の完徳者に勝てない。ディエゴが言った。「馬を降りろ。荷物を捨てろ。二人ずつ、裸足で、歩いて、貧しく説教しろ。彼らのように」。使節たちは従った。ディエゴは翌年オスマに戻って死に、ドミニコが残った。1206年12月、プルイユに、改宗した女性のための修道院(カタリ派は貴族の娘を完徳者の家で教育していた。同じことをカトリックで。ドミニコ会の最初の家は、女子修道院だった)。

1209年、アルビジョワ十字軍。ドミニコは加わらなかった。シモン・ド・モンフォールと親しく(その子の洗礼に立ち会った)、剣を持たず、説教を続けた。異端審問官ではなかった(制度は1231年、彼の死後)。

1215年、トゥールーズ。市民ピエール・セイランが家を寄付した。6人。司教フルクが「教区の説教者」として認めた。11月、第4ラテラノ公会議は「新しい修道会は作るな。既存の会則を選べ」と決めた。ドミニコはアウグスティヌスの会則(参事会員の会則。柔軟)を選んだ。1216年12月22日、ホノリウス3世の認可。翌年、「説教者修道会(Ordo Praedicatorum)」の名。

1217年8月15日、プルイユ。ドミニコは16人の弟子を集めて「散れ」と言った。7人をパリへ(大学のために)、4人をスペインへ、2人をトゥールーズに、自分はローマへ。「穀物は蓄えれば腐り、撒けば実る」。弟子たちは泣いた。1218年、パリのサン・ジャック(大学の隣)。同じ年、ボローニャ(大学の隣)。1220年、ボローニャで最初の総会。会憲。清貧(会として何も持たない。托鉢)。学問(各修道院に教師を置く。修道士は説教のために学ぶ。学ぶ者は聖務日課を免除されうる)。選挙(院長は修道士が選び、総会は各管区の代表)。「説教のために、全ては」。

1221年に300人、1256年に1万3000人。アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、マイスター・エックハルト、フラ・アンジェリコ、サヴォナローラ、ラス・カサス、ヴィトリア。紋章に「真理(Veritas)」。伝説では、母が妊娠中に、口に松明をくわえた犬が世界を照らす夢を見た。「主の犬(ドミニ・カネス)」。

1231年、グレゴリウス9世が教皇直属の異端審問官を置いた。ドミニコ会士が多く任命された(学問があり、動けて、教皇に直属していたから)。トルケマダも、『鉄槌』のクラーマーも、ドミニコ会士。ブルーノを裁いた側にも、ブルーノ自身にも、ドミニコ会士がいた。説教で異端を戻そうとした会が、異端を焼く会になった。

同じ時代のできごと

ナンマドールの造営AD12世紀頃から17世紀まで『ニーベルンゲンの歌』AD1200年頃パリ大学の成立AD1200年頃崔氏政権の始まりAD1196年トンガ海上帝国AD1200年頃ラリベラの岩窟教会AD1200年頃第四回十字軍AD1204年4月12日第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪AD1204年