安倍晴明
概要
陰陽師。賀茂保憲に学び、天文博士。花山天皇の出家の夜、星を見て「天皇が退位した」と言った、と『大鏡』。道長を呪詛から守った。『今昔物語』『宇治拾遺』で式神を使い、狐の子とされ、江戸で浄瑠璃に、平成で夢枕獏の小説に。晴明神社。五芒星。
本文
安倍晴明は、平安時代の中ごろの陰陽師である。陰陽師とは、朝廷の役所である陰陽寮に属し、天体の動きを観測して異変を報告し、暦を作り、占いによって吉凶を判断し、災いを祓う儀式を行った技術者の役人だった。晴明はその中で最も名を知られた人物で、死後、千年をかけて、式神を操り、狐を母に持つ呪術師の伝説へと姿を変えていった。

921年に生まれたとされる。父は安倍益材という下級の官人だったと伝えられ、遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂の子孫とする話は後世のものである。若いころ、当時の陰陽道の第一人者だった賀茂忠行とその子の保憲に学んだ。『今昔物語集』には、少年の晴明が師の忠行の車の後ろを歩いていたとき、夜の都大路をこちらへ向かってくる鬼の群れにただ一人気づき、眠っていた師を起こして難を逃れたという話が載っている。保憲はのちに、暦の道を自分の子に、天文の道を晴明に伝えた。以後、暦は賀茂家、天文は安倍家という分担が、長く続くことになる。
もっとも、確かな記録に晴明が現れるのは遅い。最初に名前が見えるのは960年、内裏が火事で焼けたあとのことで、そのとき晴明は40歳で、まだ天文を学ぶ学生の身分だった。その後、天文博士となって天の異変を朝廷に報告する役に就き、やがて天皇や有力な貴族のために占いや祓いを行うようになった。晩年には従四位下にまで昇っている。陰陽寮の出身者としては異例の出世だった。

晴明の名が広く知られるのは、986年の花山天皇の突然の出家(花山天皇の出家(寛和の変))をめぐる『大鏡』の一場面である。藤原兼家の一族に唆された天皇は、夜ひそかに内裏を抜け出し、山科の寺へ向かった。その途中、晴明の家の前を通りかかると、中から手を打つ音とともに、帝が退位されるという天の異変があった、もうそのことが起きてしまったようだ、急いで参内の支度を、と言う晴明の声が聞こえた。晴明はさらに、式神に様子を見に行かせたという。歴史物語の脚色を含んだ話だが、晴明が天の変化から地上の大事を読む人として知られていたことはうかがえる。
貴族の日記にも、晴明の働きが記されている。藤原道長は日記『御堂関白記』の中で、たびたび晴明に吉日を選ばせ、祓いを行わせたことを書いている。一条天皇の病のときには、寿命を司る神を祀る泰山府君祭を行った。1004年、長く日照りが続いたとき、晴明が雨を祈る祭りを行うと雨が降り、天皇から褒美を受けたという記録もある。晴明は80歳を超えてもなお、宮廷から頼られていた。

1005年、晴明は85歳で死んだ。子孫は代々陰陽寮の長官などを務め、のちに土御門家を名乗って、明治のはじめに陰陽寮が廃止されるまで、朝廷の暦と天文に関わり続けた。
晴明が伝説の人になるのは、むしろ死後である。平安時代の末から鎌倉時代にかけて編まれた説話集には、彼の不思議な力を語る話が次々に現れる。若い僧たちにせがまれて、草の葉を投げて蛙を押しつぶしてみせた話。道長が寺の門をくぐろうとすると、飼い犬が裾をくわえて引き止め、晴明に占わせると、門の下の土に呪いの品が埋められていたという話。呪いをかけたのは播磨の法師陰陽師、蘆屋道満だとされ、以後、道満は晴明の好敵手として物語に登場するようになる。

室町時代から江戸時代になると、晴明の母は和泉の信太の森の白狐で、正体を知られて森へ帰っていったという話が広まった。別れぎわに、恋しければ訪ねてきてほしい、和泉の信太の森へ、と歌を書き残したという筋は、1734年に初演された浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』で大当たりを取り、歌舞伎の人気演目になった。陰陽道の秘伝書とされる書物の中にも、晴明の名に仮託されたものが作られた。
京都の晴明神社は、晴明の屋敷の跡に建てられたと伝わり、その神紋は五つの頂点を持つ星形で、「晴明桔梗」と呼ばれる。1980年代の終わりから、夢枕獏の小説『陰陽師』とそれを原作とする漫画、2001年の映画などによって晴明は改めて脚光を浴び、神社には多くの若い参拝者が訪れるようになった。
同じ時代の都には、紫式部や清少納言がいた。彼女たちが描いた宮廷で、病や不吉な出来事が起きるたびに呼ばれたのが陰陽師である。実際の晴明は、星を観測し、日を選び、祓いをする、年老いた有能な役人だった。その一人の役人の名前が、千年後の日本で最もよく知られた呪術師の名前になっている。