本居宣長
概要
松阪の木綿商の子。京で医学を学び、松阪で小児科医をしながら、夜、『源氏物語』と『古事記』を講じた。34歳、松阪の宿で賀茂真淵に一晩会った(松坂の一夜)。「もののあはれ」。「漢意を去れ」。『古事記伝』44巻。『玉勝間』。「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」。門人500人。鈴を集めた。72歳。
関わったできごと(1)
本居宣長『古事記伝』AD1798年(寛政10年) · 書いた本文
1730年、伊勢の松阪で、江戸に店を持つ木綿問屋小津家に生まれた。松阪は伊勢参りの街道が通り、江戸で商売をする豪商が多く住む町だった。11歳で父を亡くし、のちに家を継いでいた異母兄も亡くなって、若くして家の主となった。だが本人は商売に身が入らず、本ばかり読んでいた。母は息子の性分を見抜き、店をたたんで、学問で身を立てられる医者になるよう勧めた。

1752年、22歳で京都に出た。儒学者の堀景山のもとで漢籍を学び、別の師について医学を修めた。このころ、先祖の姓である本居を名乗るようになる。京都での5年あまりは、学問の上でも暮らしの上でも楽しい日々だったようで、日記には芝居見物や花見の記録が多い。そしてここで、江戸時代の初めの僧契沖が『万葉集』を注釈した本に出会い、古い歌の言葉を、後の時代の解釈によらず、その時代の言葉の使い方から読み解く方法に目を開かれた。
1757年、松阪に戻って医者を開業した。子どもの病気を診ることが多かったと言われる。昼は医者として働き、夜は自宅で近所の人々を集めて『源氏物語』などの講義をした。この講義は生涯続き、宣長の暮らしの柱になった。
宣長が『源氏物語』の中に見いだしたのが「もののあはれ」である。物事に触れて心が動くこと、しみじみと感じ入ること。『源氏物語』は、儒教や仏教の立場から言われてきたような、教訓や戒めのための書物ではない。人の心の動きをありのままに描き、読む人にもののあはれを知らせることこそが、この物語の本質だ、と宣長は論じた(『源氏物語』)。道徳の物差しで文学を裁くことを退けたこの考えは、文学の読み方を大きく変えた。

1763年5月、宣長の生涯を決める一夜が訪れる。江戸の国学者賀茂真淵が、伊勢参りの帰りに松阪の宿に泊まったのである。真淵の著書を読んで敬慕していた宣長は、宿を訪ねた。真淵は67歳、宣長は34歳。宣長が『古事記』を研究したいという志を打ち明けると、真淵は、古い道を知るには、まず『万葉集』で古い言葉をしっかり学ぶことだ、と励ました。後に「松坂の一夜」と呼ばれる出会いである。二人が顔を合わせたのは、生涯でこの一度だけだった。宣長はその後、手紙で真淵の門人となり、6年後に真淵が亡くなるまで質問と添削のやりとりを続けた。真淵が宣長の歌や解釈を厳しく叱りつける手紙も残っている。
翌1764年、宣長は『古事記伝』に取りかかった(本居宣長『古事記伝』)。『古事記』は8世紀の初めにまとめられた日本最古の歴史書だが(『古事記』の完成)、漢字の音と意味を入り混ぜて日本語を書き表しているため、平安時代以後はまともに読める人がほとんどいなかった。正式な歴史書としては、漢文で書かれた『日本書紀』のほうが重んじられてきた。宣長は、『古事記』の一字一字について、それをどう読み、どういう意味の古い言葉を表しているのかを、ほかの古い文献と照らし合わせて考え抜いた。完成したのは1798年、34年後のことで、全44巻に及んだ。この本によって、『古事記』は初めて読める書物になった。

研究を進めるなかで、宣長は「漢意」を去れ、と説くようになる。漢意とは、中国の書物から学んだ理屈で物事を割り切ろうとする心のことである。日本の古い時代の人々は、理屈をこねず、神々の行いをありのままに受け入れて生きていた。その素直な心こそが「古の道」である、と宣長は考えた。儒学者たちはこれに反論し、宣長も負けずに論争した。大坂の作家上田秋成とは、『古事記』の神話をどこまで事実として受け取るかをめぐって激しく言い争っている。神話に書かれたことを文字通り信じよ、と言わんばかりの宣長の態度は、当時から理屈に合わないと批判された。
宣長の学問は、松阪の町医者の家の2階の小さな書斎で営まれた。宣長は鈴の音を好み、書斎の柱に36個の小さな鈴を赤い紐でつないで掛け、疲れると振って音を楽しんだ。この書斎は「鈴屋」と呼ばれ、宣長の号にもなった。家は今も松阪に保存されている。

晩年の宣長は全国に知られる学者になった。門人は約500人を数え、伊勢、尾張、京都、江戸をはじめ各地に及んだ。紀州藩主に求められて書いた政治についての意見書では、百姓一揆が起きるのは、まず治める側に非があるからだ、と書いている。1801年には、紀州藩に招かれて和歌山で藩主に講義をした。随筆『玉勝間』、学問の手引き『うひ山ぶみ』など、著作は多い。
61歳のとき、自分の肖像画に一首の歌を書き添えた。敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花。日本人の心とは何かと問われたら、朝日に照り映える山桜の花を見て、美しいと感じる心だと答えよう、という歌である。宣長は桜をことのほか愛した。ところが近代になると、「大和心」は勇ましい「大和魂」と結びつけられ、この歌は散り際のいさぎよさをたたえるものとして、戦時中には特攻隊の部隊の名にまで使われた。宣長自身の歌に、死を美化する意味はない。
1801年、松阪で亡くなった。数えで72歳だった。死の前年に書いた遺言書には、自分の葬儀の段取りから、墓の形、墓に植える桜の木のことまで、図入りで細かく指示してあった。墓は松阪の郊外の山の上に設けられ、遺言どおり山桜が植えられた。宣長の死後、その著作を読んで心酔した平田篤胤は、夢の中で宣長に入門を許されたと称し、「没後の門人」を名乗った。篤胤の国学は幕末の尊王の思想に大きな影響を与えていく。
『古事記』を読めるものにし、文学を道徳から解き放った学者としての宣長と、日本の古代を理想とし、外来の考えを退けようとした思想家としての宣長。その二つの顔は、今も別々に評価されている。