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Person / 人

本居宣長

Motoori Norinaga
AD1730年6月21日 – AD1801年11月5日(享年71)
国学重要度 5

概要

松阪の木綿商の子。京で医学を学び、松阪で小児科医をしながら、夜、『源氏物語』と『古事記』を講じた。34歳、松阪の宿で賀茂真淵に一晩会った(松坂の一夜)。「もののあはれ」。「漢意を去れ」。『古事記伝』44巻。『玉勝間』。「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」。門人500人。鈴を集めた。72歳。

関わったできごと(1)

本居宣長『古事記伝』AD1798年(寛政10年) · 書いた

本文

1730年、伊勢の松阪。木綿問屋小津家の次男。「小津」の家で、映画監督小津安二郎は同族。11歳で父が死に、家業に向かなかった。母が「医者になれ」と言い、1752年、京へ。医学と、堀景山に儒学。契沖の『万葉代匠記』を読んだ。

1757年、松阪で小児科医を開業した。本居の姓に戻した。夜、講義した。『源氏物語』。「もののあはれ」。

1763年5月25日、賀茂真淵が伊勢参りの帰りに松阪の宿に泊まった。宣長は会いに行った。一晩。真淵67歳、宣長34歳。「古事記をやりたい」「まず万葉集で古語を学べ」。「松坂の一夜」。それきり会わず、手紙で。真淵は宣長の『万葉集』の解釈を叱ったこともあった。

『古事記伝』。1764年から34年。『源氏物語玉の小櫛』。『玉勝間』(随筆)。『うひ山ぶみ』(学問の入門)。『直毘霊』。『くず花』(儒者市川鶴鳴との論争)。『秘本玉くしげ』(紀州藩主への政治意見。百姓一揆は為政者の責任)。門人約500人。伊勢、尾張、京、江戸。荒木田久老、鈴木朗、服部中庸、平田篤胤(宣長の死後、夢で入門した「没後の門人」)。

「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」(1790年、自画像の賛)。「大和心」は「日本人の心」で、後に「大和魂」と混同され、軍国主義に使われた。宣長の大和心は、桜を見て美しいと思う心のことだった。

鈴の音を好んだ。「鈴屋」。書斎に36個の鈴をつるした。

1801年、松阪で死んだ。72歳。遺言書に、葬儀の詳細を指示した。妙楽寺の山の上に墓、山桜を植えろ。石には「本居宣長之奥墓」。今もある。