湯川秀樹
概要
中間子の存在を予言し、日本人で初めてノーベル賞を受けた。戦後は核兵器廃絶を訴える側に立つ。
所属
日本関わったできごと(2)
中間子論AD1935年 · 提唱ラッセル=アインシュタイン宣言AD1955年7月9日 · 署名した本文
1907年1月23日、東京で生まれた。旧姓は小川。父の小川琢治は地質学者で、翌年京都帝国大学の教授になり、一家は京都へ移った。兄の貝塚茂樹は中国史、弟の小川環樹は中国文学の学者になる。秀樹は幼いころ、祖父から漢籍の素読を仕込まれた。意味も分からないまま声に出して読んだ漢文が、のちの文章と考え方の下地になったと、自伝『旅人』で振り返っている。無口で、人前で話すのが苦手な子どもだった。

第三高等学校から京都帝国大学の物理学科に進み、1929年に卒業した。同じ学年に朝永振一郎がいた。当時、量子力学はヨーロッパで生まれたばかりで、日本には教えられる人がほとんどいない。二人は論文を自分で読んで学んだ。1932年に湯川スミと結婚して湯川家の養子になり、翌年から大阪帝国大学で教えた。
取り組んだのは、原子核の謎だった。原子核の中で陽子は互いに反発するはずなのに、まとまっている。電気を帯びない中性子も含めて、何かが結びつけている。その「何か」を、湯川は粒子のやり取りとして考えた。力が届く距離が原子核ほどに短いなら、運ぶ粒子は重さを持つはずで、その重さは電子のおよそ200倍になる。1934年に学会で発表し、翌1935年に論文にした(中間子論)。まだ誰も見たことのない粒子の存在を、計算から言い当てたのである。

最初は、海外ではほとんど注目されなかった。1937年、アメリカで宇宙線の中から、ちょうどそのくらいの重さの粒子が見つかり、湯川の名は一気に知られた。ところがこの粒子は、原子核とほとんど反応しない。予言とは違うものだった。混乱が続いた後、1947年、イギリスのパウエルらが宇宙線の中から別の粒子を見つけ、これこそが湯川の予言した中間子だと分かった。最初の粒子は、のちにミュー粒子と呼ばれるものだった。
戦争中の湯川には、語られることの少ない面もある。京都帝国大学の荒勝文策らが海軍から引き受けた原子爆弾の研究に、湯川も理論の側から加わり、会合に出ていたことが、のちに公開された日記などから分かっている。計画は実を結ばないまま敗戦を迎えた。
1948年、湯川はオッペンハイマーに招かれてプリンストン高等研究所へ渡った。そこでアインシュタインに会っている。スミ夫人の回想によれば、アインシュタインは湯川の手を握り、日本の罪のない人々を原爆で傷つけたことを涙ながらに詫びたという。アインシュタインはかつて大統領に原爆の研究を促す手紙に署名していた。
1949年、日本人として初めてノーベル賞を受ける(ノーベル賞の始まり)。物理学賞で、知らせはニューヨークのコロンビア大学で聞いた。敗戦から4年、占領下で食べるものにも困っていた日本で、そのニュースは科学の外にも大きな意味を持った。帰国後の1953年、京都大学に新しくできた基礎物理学研究所の初代所長になり、全国の研究者が集まって議論する場を作った。

戦後は核兵器の廃絶を訴える側に立った。1954年の第五福竜丸の被災は、湯川を一層この問題へ向かわせた。1955年、ラッセル=アインシュタイン宣言に署名した11人の一人になる。1957年にはカナダで開かれた最初のパグウォッシュ会議に出席し、1962年には朝永らと科学者京都会議を始めた。原子力委員会の委員にもなったが、海外の原子炉を急いで買い入れる方針に納得できず、1年あまりで辞めている。
晩年は、素粒子を点ではなく広がりを持つものとして考える理論を追い続けた。完成には至らなかったが、その発想はのちの理論に通じるものがあった。1981年9月8日、京都で死んだ。74歳だった。
原子核の力を説明した人が、その力を兵器にすることに反対し続けた。湯川の受賞は、広島・長崎への原爆投下を経験した国の学問が、もう一度世界の最前線に立てることを示した。中間子の予言から始まった日本の素粒子物理は、朝永、南部、小柴、小林、益川と、何人ものノーベル賞の受賞者を生んでいくことになる。