春秋の争覇と鉄製農具
概要
周王の権威が名ばかりになり、諸侯が覇を競った。鉄の農具と牛耕で収穫が増え、それを支えに新しい人材が身分によらず登用されていく。諸子百家の土壌になる。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
本文
紀元前770年、周の王は西の都を異民族と反乱した諸侯に追われ、東の洛邑(いまの洛陽の近く)に都を移した(周の東遷)。これより後を東周と呼ぶ。周の王は、もはや諸侯を従わせる力を持たなかった。王は天下の主として敬われはしたが、実際に国を動かすのは、各地の諸侯たちになった。
この時代の前半を春秋時代という。名は、魯の国の年代記『春秋』から来ている。『春秋』は紀元前722年から紀元前481年までのできごとを記し、のちに孔子がまとめたものと伝えられてきた。時代の終わりをどこに置くかには諸説あるが、ふつうは紀元前403年、北の大国晋が三つに分かれたときまでを春秋時代とし、その後を戦国時代とする(三家分晋(戦国時代の始まり))。

初め、中国には百を超える大小の国があった。それが争いと併合で、しだいに少数の大国にまとまっていった。大国の君主の中には、諸侯の会合を開いて盟約を結ばせ、周の王を立てながら実際には天下の取りまとめ役となる者が現れた。覇者である。最初の覇者とされるのが、東の大国斉の桓公で、名宰相管仲の助けを得て国を富ませた(斉の桓公の覇)。続いて晋の文公、南の楚の荘王などが覇を唱えた。王を尊び、外の異民族を退ける、という旗印が、覇者の正しさの根拠になった。
春秋の後半には、長江の下流の呉と越が台頭した。呉は兵法家の孫武を用いたと伝えられ(『孫子』の兵法)、越と激しく争った。紀元前473年、越が呉を滅ぼした(越が呉を滅ぼす)。薪の上に寝て、苦い肝をなめて恨みを忘れないようにした、という「臥薪嘗胆」の故事は、この争いから生まれた話である。

この時代、鉄が使われ始めた。中国では早くから、鉄を溶かして型に流し込む鋳鉄の技術が発達した。鉄の刃を付けた農具は、木や石の道具より深く土を耕せる。牛に犂を引かせる耕し方も、このころから広まり始めたとされる。ただ、鉄の農具と牛耕が農村のすみずみまで行き渡るのは、次の戦国時代から漢にかけてのことで、春秋時代はその始まりにあたる。開ける土地が増え、収穫が増えると、国はより多くの人を養い、より多くの兵を集められるようになった。
戦争の形も変わっていった。初めの戦いは、貴族が馬に引かせた戦車に乗って戦うもので、礼にかなった振る舞いが重んじられた。だが争いが激しくなると、農民を歩兵として大量に動員する戦いへと移っていった。

国のしくみも変わった。紀元前536年、鄭の宰相子産は、刑罰の法を青銅の鼎に鋳込んで人々に示した(子産の刑鼎)。それまで法は貴族が胸の内で決めるものだったから、これには強い反対があった。法を誰にでも見えるものにすることは、生まれによる特権を弱めることでもあった。
生き残りをかけた国々は、身分よりも力のある人材を求めた。家柄の低い者でも、才覚があれば君主に取り立てられる道が開けた。そうした時代の中で、孔子が現れる。孔子は紀元前551年ごろ魯に生まれ、周の初めの礼と徳による政治を理想とした。だが魯では志を遂げられず、弟子を連れて14年にわたって諸国をめぐったが、どこにも長くは用いられなかった(孔子の遍歴)。晩年は魯に帰って弟子を教えた。

孔子の後、戦国時代になると、墨子、孟子、荘子、荀子、韓非らが現れ、国の治め方や人の本性をめぐって論じ合った。のちに諸子百家と呼ばれる人々である。思想が競い合ったのは、君主たちが優れた考えと人材を求め、それに応える知識人が国から国へと渡り歩く、という仕官の市場があったからだとも言える。春秋時代は、その土壌が作られた時代だった。百を超えた国々は、戦国の七つの大国を経て、紀元前221年、秦の始皇帝のもとで一つになる。