王充
概要
会稽上虞。孤児で貧しく、洛陽の太学で班彪に学び、書店で立ち読みして暗記した。地方の小役人。『論衡』85篇、30年。「天に意志はなく、雷は火、鬼はいない、孔子も誤る」。家に本がなく、壁に筆を置いて、思いついたら書いた。「虚妄を疾む」。
関わったできごと(1)
王充『論衡』AD80年頃 · 著者本文
27年、会稽郡の上虞、いまの浙江省の紹興に近い町で生まれた。光武帝が漢を再興して後漢を開いてから、わずか2年後である(後漢の成立)。家のことは、晩年の彼が『論衡』の最後の篇「自紀」に自ら書いている。先祖は北方の出で、手柄を立てて会稽に領地を得たが、一代で失い、その後は農業と商売で暮らした。祖父も父も気が荒く、土地の有力者と争って恨みを買い、一家は住む場所を何度も移した。
王充はそういう家に、おとなしい子として生まれた。ほかの子どもたちが鳥を捕ったり、蝉を追ったり、銭を賭けて遊んだりするのに加わらず、父はそれを不思議がったという。6歳で字を習い、8歳で書館、つまり村の学校に入った。100人あまりの子がいて、悪さや字の下手さでしょっちゅう鞭で打たれたが、彼だけは一度も打たれなかった、と本人は書いている。少々自慢げな書きぶりも、この人らしい。
若くして父を亡くしたとされる。都の洛陽に出て、国の最高学府である太学で学んだ。師は、のちに『漢書』を書く班固の父、歴史家の班彪である(『漢書』の完成)。家は貧しく、本を買う金がなかった。そこで彼は洛陽の市場の本屋に通い、売り物の本を立ったまま読んだ。一度読めば覚えてしまい、やがて諸子百家の書物にひととおり通じた、と『後漢書』は伝える。
その後、郷里に戻り、県や郡の役所の下級の役人を何度か務めた。だが、上役にしばしば意見して聞き入れられず、そのたびに職を辞した。出世とは縁のない人生だった。彼は家に籠もり、門を閉じて、冠婚葬祭の付き合いも絶った。窓や戸や壁のあちこちに、筆と、竹の札を削る小刀を置いておき、思いついたことをその場で書きつけた。そうして30年あまりをかけて書き上げたのが、『論衡』である(王充『論衡』)。
当時の漢の学問は、儒教が国の教えとなってから、奇妙な方向に膨らんでいた。前漢の董仲舒は、天と人とは互いに感応し合い、君主が悪い政治をすれば天が災いや怪異を下して戒める、と説いた。さらに、経書の裏に隠された予言を読み取るという讖緯の書が流行し、光武帝自身がそれを信じて重んじた。めでたいしるしが現れた、竜が見えた、と宮廷はしばしば騒いだ。
王充は、そうした話を一つ一つ取り上げ、証拠と理屈で退けていった。天には目も口も意志もない。天と地の気が合わさって、万物は自ずと生まれる。天が人のためにわざわざ五穀を育て、衣のために麻を生やしているのではない。雷は天の怒りではなく、陰陽の気がぶつかって起こる火である。その証拠に、雷に打たれた人は焼け焦げ、雷の落ちた家は燃える。人が死ねば精気は散り、体は朽ちて土に返る。死んで鬼になるのなら、太古以来の死者の霊で道はあふれているはずだ、とも書いた。
批判の矛先は、聖人にまで向かった。『論衡』には、「問孔」(孔子に問う)と「刺孟」(孟子を刺す)という篇がある。孔子の言葉にも前後で矛盾するところがあり、弟子はその場で問いただすべきだった、と彼は論じた。経書を絶対の権威とする時代に、これは大胆な書き方だった。全体を貫く姿勢を、彼は一言で表している。虚妄を疾む。根拠のない作り話を憎む、という意味である。
文章は飾り気がなく、同じ論法を繰り返してくどいところもある。当時の文人たちが好んだ華やかな文体とは正反対で、彼自身、文章は意味が伝わればよい、飾りはいらないと書いた。
ただし、彼の考えがすべて現代的だったわけではない。人の寿命や貧富、出世は生まれたときの「命」で決まっていて、努力で変えることはできない、とも説いた。顔や骨格の相で運命が分かるという骨相の説も認めている。天の意志は否定しても、偶然と宿命の支配する世界を、彼は冷静に受け入れていた。不遇な役人人生を送った彼の、自分への慰めだったのかもしれない。
晩年、同郷の官僚が彼の学識を朝廷に推薦し、章帝が特別に召し出そうとしたが、病のため上京できなかったと『後漢書』は伝える。70歳に近づき、気力も衰えたころ、長生きの法を論じた書を書いた。97年ごろ、郷里で死んだとされる。『論衡』のほかにも、世の俗習を批判した書や政治を論じた書を書いたが、いずれも失われた。
生前、『論衡』はほとんど知られなかった。後漢の末、学者の蔡邕が呉の地でこの本を手に入れ、ひそかに愛読して、話の種にしていた。人々は蔡邕の談論が急に冴えたのを怪しみ、枕元を探って『論衡』を見つけた、という逸話が伝わっている。その後も儒教の正統からは異端として扱われがちだった。20世紀になると、中国で「唯物論の先駆者」「無神論者」として高く評価された。だが彼が否定したのは、神そのものというより、証拠のない話を信じ込む態度だった。目で確かめ、理屈で詰める。その方法は、2000年近くたったいまも古びていない。